一人は深く、二人は楽しい。

先日、ひとりで書店をうろうろしていた。膝が痛いなぁと思って出たら、4時間半も経っていた。ショッピングモールじゃないんだぞ、と思いながら、膝を曲げ伸ばししながら帰った。

一人暮らしのときはしょっちゅう本屋をハシゴしたり長期滞在したりしていた。誰にも咎められることなく、満足するまで書店に居て、気に入った本を買って帰る。この上なく贅沢な時間だった。


帰りは、読んだ本のことに思いを馳せて、理解できなかったところ、面白かったところ、見たことのなかったフレーズを思い返してはニヨニヨする。これも日課だった。今はマスクもあって安心してニヨニヨできる。

二人で暮らし始めて、一人暮らしのわたしのことを思い出せなくなっていたのだけど、書店に心ゆくまでいられたことで、「これだった」と思い出した。贅沢な時間は、一人でも二人でも作ることができるんだった。

でもやっぱり、本の内容を噛みしめるのは一人のときがより贅沢だ。とりとめなく、でも深く深く、意識の下に潜っていける。ものすごく楽しい。

して2人のときは「こんな本があってね、私はこう考えたよ」と旦那さんに話すのがものすごく楽しい。私と旦那さんは読む本のジャンルが違うので、本への印象も大体違う。だから、話を聞いてくれた旦那さんは違う感想を持っていたりする。それを聞くのもまた贅沢で尊い時間だ。

結婚したら幸せになれるのではなくて、独身も楽しいし、結婚しても楽しい、という当たり前のことを思い出した。



「あのコは貴族」に、女同士は分断されるって話があった。専業主婦と働く女性は相容れないように情報が操作されているし、子育てをしてもママ友は怖いと囁かれ、働いて出世をしてもそもそも女性の枠は決まっていて、そこをみんな目指すから結局敵になる、みた…いな…意訳が間違っているかも…ご容赦…。

「男が絡むと話の通じなくなる女だと思われてなくて良かった」ってセリフ(ごめんこれもうろ覚えだよ)が良すぎて良すぎて。女の義理を果たす、とか、とてもかっこいい。感想の頭が悪い。



本も、映画もそうだけど、「良かった」って思う作品って、その中のひとフレーズを日常の中で思い出したり、作り手はこれを表現したかったのかもって、追体験したような気持ちになったり、そういう「繋がった」と思った瞬間が、作品をより好きになるきっかけになる。



インプットの一人。アウトプットの二人。どっちも大好き。旦那さんも一人も好きと言っていた。私にも旦那さんにも友達は少ない。でも大好きな作者が何人もいる。私達の楽しくなかった学生生活は、本が彩ってくれた。

いじめられることも特にないけど、大好きな友達というのもまたできず、無理やり友達を作るぐらいなら図書室にこもっていた方が良かった。

転校先の先生に「みんな仲良くしてあげてね」とクラスの生徒に言われたことで「は?仲良くしてあげてもらわなくていいですけど?」と内心ブチギレて図書室に通っていた旦那さんの話が好きすぎて1万回ぐらい反芻している。私の心のお守りエピソードだ。

図書室には、友達はいないし、学校にも馴染めない主人公がたくさんいる。でも世界も救うし隣の人間も救う。あと旦那さんと私も救う。学校の中でもさいっこうの場所。



私が本に教えてもらった言葉たちを使っていなかったら、多分旦那さんは私と結婚してくれていない。語彙に違和感がない、というのは会話する上で大事なことだよなぁと思う。

難しい言葉を知っているとか知らないとかじゃなくて、相手の言葉が分かるし聞ける、とか、私の言葉を違和なく聞いてくれるとか、そういう語彙の量や使い方。それが合わないと同じ日本語を喋っているのに双方意味が分からない亜空間が生まれる。

元彼氏の皆様におかれましては亜空間を多くの場面で作り出してしまい大変申し訳ありませんでした。


日本語って操る人によって本当に本当に差がある。見たことのない表現ばかりなのに、意味がありありと伝わってくる不思議な体験をさせてくれるのが小説だと思う。日本語っていっぱいあるんだなという頭の悪い感想しか出てこない。

今も友達は少ないけど、一人で深く、二人で楽しく過ごせることは、間違いなく本と書店のおかげ。

不憫な旦那さんに全額寄付します。