3月28日のこと

今年の3月28日で,母が亡くなって27年になる。
享年42歳,わたしが15歳の時だった。

そうして,現在42歳のわたしも,もうすぐ3月28日を迎える。 
42歳なんて,若い,若過ぎるよ。
しかも子ども3人を残して,さぞ無念だったに違いない。
わたしも42歳になったら,当時の母の気持ちが分かるだろうかと,ずっと思っていた。

そんな27年目の母の命日を前に,「書く」ことにした。

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わたしの中学生活が忙しくなってきたある時期から,どんなに掃除をしても,
家の中が汚れている,というイヤな気持ちが払拭できない感じを覚えるようになった。
今思うとそれは,母が,帰らぬ人となる前触れだった。

仕事以外は具合が悪いからと昼間から寝ていることが多くなった母が,ある日,耐え切れずに隣町の病院に行った。
心配で母からの連絡を家で待っていたわたしに,緊急で検査入院をすることになったと母は言った。

荷物を取りに一旦帰って来て、そうしてまた入院。
その時はまだ,もう母が元気な姿で家に帰って来ることは無いことを,知る由もなかった。

長い治療生活に入った母はやがて,札幌の北大病院で放射線治療をすることになり,その準備の為に一旦家に帰って来た。
その日は,ようやく帰って来た懐かしさと,母の身体が心配な気持ち,ただ側にいるだけで心から安堵する気持ちを噛み締めていた。

やがて母は,再び病院に戻って行った。
「さようなら」と言う人の顔を見るのは,辛い。

札幌での治療は,北大病院の病室に空きが無く,近くの産婦人科に入院し,北大病院に通った。
ある日お見舞いに行った時に,病室に母はいなくて,ふとテーブルの上にあったメモが目に入った。
それは,母が,震える字でわたし宛てに書いたメッセージだった。
筆圧の無いその文字を見て,放射線治療って辛いんだ,と思った。 

産婦人科なのに母のいる部屋はとても寒く,母の辛さを想い寂しい気持ちになった。
病室に戻って来た母はわたしにこう言った。
「ごめんね,弟たちの面倒を頼むね」
治療が辛いとは言わなかった。

同じ頃,ニュースキャスターの逸見政孝さんがガンに倒れた。

人気者だったので,よく逸見さんの容態をテレビが特集した。
観れば観るほど,母の病状にそっくりだったので,母に似ていると思ったが,いや,母のは絶対「前ガン症状」だよ,大丈夫大丈夫と自分に言い聞かせた。
でも,もしかしたらもう戻ってこないのかも知れない,と不安で居ても立っても居られなくなり,無我夢中で家にあった家庭医学大辞典を読んだり,
本屋さんに行って胃の病気やガンのことを調べたりしたが,安心できる情報はどこにも見つけられなかった。
しかし決して,母の不在を悲しまないようにしていた。

でも,母は胃と子宮の末期ガンに侵されていた。
若かったので進行も早かった。別れは突然訪れた。
ある日,病室に行くと話ができなくなくなっていた。
次に行ったときには髪が抜け,口から臭いにおいをさせてしまっていた。
次に行ったときには,ガンは母から,自力でまばたきをする力さえ奪おうとしていた。
親戚のおばちゃんが,「誰が話しかけてももうほとんど反応しないの」と言った。
「でも和香ちゃんが話しかけたら反応があるかもよ?」 と言うので,
「お母さん,お母さん」と声をかけたら,
もう意識が戻ら無いと思われていた母が,眼球を動かして応えてくれた時は嬉しかった。

いつ終わるとも知れない母の入院生活。
家にいると早く母のそばに行きたくて仕方がないと思うのだが,
病院にいればそわそわして身体中が痒くなり,疲れた。
多分誰もがもう元気な姿で帰ってこないことは判っていた。
でも,「その日」を迎えたくなかった。

家族ひとりひとりが,それぞれ辛い思いをしながら母を想い悲しんだ,長い長い時間。

忘れっぽいわたしでも,母が亡くなったときのことはよく覚えている。
静かであっけなかった。

1999年3月28日も日曜日。

寒い冬の朝,わたし達家族はその日も病院にいた。

すでに個室に移っていた母の病室に,看護婦さんが慌ただしくカートを引いてきた。
続いて医師もきた。
わたしと父は病室の外に出された。

病室に呼ばれた時には,母は息を引き取っていた。
「9時6分、ご臨終です。」
春の日差しが病室内を明るく照らしていた。
隣で立ち尽くしていた父が,声を上げて慟哭した。
彼が声を上げて泣いているのを初めて見た。
わたしは泣かなかった。

医師と看護師が病室から出て行き,落ち着きを取り戻した父も,親戚や葬儀屋に連絡をしに行った。
みんなが居なくなって,ようやく母と2人きりになり,
わたしは自分の1番したかったことをした。
すっかり痩せて骨と皮だけみたいになった母の胸に,顔をうずめ,そして抱き締めた。

「ありがとう,お疲れさまでした。」

病室を出て,階段の踊り場で暇つぶしをしている,
無邪気な双子の弟たちに,わたしはなるべく感情を込めないようにして告げた。

「お母さん,死んだよ。」

弟の先に生まれた方が言った。
「嘘つけ。」

わたしが1番悲しかったときはこの時だ。
そんな嘘,つけるはずないじゃない。

遺体となって病院を去るその時も,雪が舞って,日差しが眩しかった。

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あれから27年。
母に聞きたいことがたくさんあった。
母に教えてあげたいこともたくさんあった。
してあげたいことも,して欲しいこともまだまだたくさんあった。

でも,晩年肉体労働で働き詰めだった母は,今頃,のんびり大好きな少女漫画を思う存分読んでいることでしょう。

↓目次にモドル
https://note.com/wakakosan/n/n94484d1dab7e

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