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いにしへの和歌まとめ~京極派そして新古今~

「いにしへの和歌まとめ」2020年11月第4週

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及ばぬ高き姿を体現する

子宮系歌人 梶間和歌です。


この週も前半は京極派というか永福門院、

後半は『新古今集』入集歌。


京極派については

こちらをご参照くださいね。


「京極派とは何たるか、改めて書きます」と言いながら、


日々必要な要素を書くことに忙しく、

なんだかんだ京極派についてがっつり書くことは

しない、


というてへぺろな展開が想像できますので。

ソースは7年半書いてきたアメブロです。


アメブロのこちらでも、

歌人ひとりひとりの簡単な解説はしたものの、

「京極派とは」という部分については

書いていませんからねえ。

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アメブロに死ぬほど書いてきた記事のなかで、

必要に応じて

「京極派の特徴として、こういう点があります」

「この歌には京極派のこういう特徴が出ていますね」

などと解説を加える、


その解説が

京極派のある面をけっこう語るだけの文章に

なっている、


という結果論が多いです。


「さて、京極派とは」

というコラム記事を書いたことはない気がする。


こういう気遣いのできなさが

なかなか人気の出ない原因でしょうか?

だとしても熱心な読者、理解者さんはいてくださるし、

あまり気にしておらず、改めようがありませんが……笑

書きたい事を書きたいタイミングで書く

ということしかせず、7年半です。

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11月23日 一はらひはげしくおろす夕暮の嵐の末を木の葉にぞ見る


永福門院。


こちら

の源具顕のところにも書きましたし、

アメブロにも折々書いていますが、


不幸体験と秀歌・凡作の相関関係は

あるといえばあるし、ないといえばない。


不幸体験があろうがなかろうが、

心を磨いた人間が

同時に歌を詠む技量も磨いていた場合に

秀歌を詠むだけです。


どんな不幸体験があろうとも、

不幸に甘えて生きてきた人間には凡作しか詠めない。


しあわせに生きていても

心を磨くこと、心の目を研ぎ澄ますことを怠らない、

かつ歌を詠む技術も磨いているならば、

秀歌を詠みます。


不幸があろうがなかろうが心は磨いてきた、

しかし歌を詠む技術は磨いていない、ならば

秀歌とは無縁でしょう。

この場合、別のジャンルで才を発揮する余地は

もちろんあります。


人間には弱さがあるので、どうしても

順風満帆に生きてきた人間が

しかしその人生に甘えず心を磨いて秀歌を詠む

ということは難しい。

だから、結果的に

不幸体験を経て目の覚めるような秀歌を

詠むに至った歌人の例が目立つ、

ということはあります。


だからといって、

秀歌には不幸体験が必須である

ということではありませんね。

そこには論理の飛躍があります。


歌に真剣に向き合う者のひとりとして、

ここは履き違えないようにしたいところです。


11月24日 朝日さす野原のをざさ霜きえて露としもなき光をぞみる


永福門院。

こちらも「永福門院百番御自歌合」より。


一首一首の完成度をどう高めるか、ということと


現代であれば連作、

昔であれば百首歌や五十首歌など

まとまった作品として発表する時に

どうバランスを取るか、ということと


必要となる観点が異なるので難しいです。


一首としてはこれで完成だ、と判断した歌を

連作に入れる段階で違った形に直す、

なんて日常茶飯事。


しかし、その連作内で調和した形の歌を

一首だけ取り出すと、

推敲前の「一首としてこれで完成だ」とした形のほうが

良かったなあ、なんてね。


それはそれとして、京極派の「ぞ」の多用については

一首単体で見た場合も

「これが本当に、この歌の最高の形かな? 」

と首を傾げるものが多いですが。


11月25日 霜こほる袖にもかげは残りけり露より馴れしありあけの月


源通具。


現代では考えにくいことですが、

新古今時代にかぎらず古典和歌の世界では

歌の代作は必ずしも珍しいこと、NGなことでは

ありませんでした。


源通具の名前で『新古今集』に入集している和歌の

一定数が

元妻である俊成卿女の詠であることは、

『新古今集』編纂当時も知られていました。


通具は最初俊成卿女と結婚、

その後離婚し別の女性と政略結婚しましたが、

だからといって俊成卿女やその実家である御子左家と

疎遠になったとか

彼女らの利用価値がないと判断したとか

そういうことではありません。


離婚後、俊成卿女は後鳥羽院女房として出仕します。


女房勤めは物入りですので、

実家や婚家の経済力がなければ、なかなか。

俊成卿女の後鳥羽院への出仕を

通具の実家が経済的にバックアップしていました。

家の格としては通具の実家のほうが上です。


その交換条件ではないですが、通具の和歌を

和歌の天才である俊成卿女が代作したり直したり

といったことをしていたそう。


元夫婦、現在は夫婦ではない、という関係性は

現在であればデリケートかなと想像されます。

が、そんなふたりの和歌が、

『新古今集』の複数箇所で並んで入集している。


こういう事実が、互いに納得づくの離婚や

その後の協力関係、

それが貴族社会で公認であったこと、

などを表しています。


現在の価値観で歴史上の事象を決めつけることには

注意していたいですね。


11月26日 晴れ曇る影をみやこにさきだててしぐると告ぐる山の端の月


源具親。

新古今歌人の花形、宮内卿の同母兄です。


同時代に条件の似た人がいると

周囲に安易に比較されてしまう、

というちょっとお気の毒なエピソードを持つ人です。


どちらかというと、この記事では具親より

藤原隆信の残念なエピソードのほうに

筆を割いてしまいましたが。

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金曜から日曜にかけて連載したコラムのほうも

またまとめますね。


それではまた来週。

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PS.


死ぬほど和歌記事があるので

「もう読む記事がない」となることはまずない

梶間和歌ブログはこちら。


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