見出し画像

いにしへの和歌まとめ~京極派冬歌多め~

「いにしへの和歌まとめ」2021年1月第1週~立春前日まで

画像1


及ばぬ高き姿を体現する

子宮系歌人 梶間和歌です。



気がづけば、

和歌ブログで1月にご紹介した和歌のまとめ記事を

noteにひとつも書かぬうちに、2月に入ってしまいました。

立春も過ぎ、2月も3分の1が終わって。


ということで、冬歌のご紹介もいよいよ終わり。


冬歌は、京極派が良いですねえ。

新古今以降の冬歌は全体的に良いが、

京極派冬歌は特別良い。


京極派の詠歌姿勢と

冬という季節の厳しさは

大変相性がよかった、と言えます。


こちらにも書きましたね。


そんな京極派冬歌のご紹介を終えるのも

名残惜しいですが、

次回からは春歌を楽しみましょう。


なにはなくとも、こちらは冬歌の紹介記事です。

さてさて。

画像3



1月5日 空は猶まだ夜ふかくて降りつもる雪の光にしらむ山の端


京極派冬歌多めと言いながら、

二条派の二条為世の歌からご紹介。


しかし、京極派的です。

入集も、二条派系の勅撰集ではなく

京極派の手になる『玉葉集』。


京極派と激しく対立した二条派の歌人にも、

丁寧に見てゆくと

驚くほど京極派的な歌があるものです。

多くはないけれどね。


こういうものを見つけるのも、

イメージで決めつけず丁寧に歌を読む時の

楽しみのひとつです。



1月6日 庭のうへにつもれる雪をひかりにてふくるもしらぬうづみ火のもと


京極派の揺籃期とも言うべき最初期に活躍し、

いち早く

京極派的な歌風(とのちに呼ばれことになる歌風)を

獲得しながら早世した、源具顕の詠。


読んでいて、また耳で聴いていて安心感のある

構造の歌です。


三句切れ、または三句で緩やかに切れて

結句を体言で止めるのは、

歌の基本の型のひとつですね。

初学者にはこの型をまず勧めたい

と私の考える型のひとつです。



1月7日~10日 鳥の声松のあらしの音もせず山しづかなる雪の夕ぐれ


京極派という枠を超えて強い愛誦性を持つ歌を

数々詠んだ、永福門院。


永福門院詠をはじめとする京極派の優れた歌に

私の感じるものは、

踏まえて乗り越えた結果の削ぎ落としきったシンプルさです。


世界中の美食を味わってきたお金持ちが

田舎の裏の山で採れたフキを味噌で和えただけのシンプルな小鉢に

涙するようなイメージ。


複雑さの極みである新古今時代の和歌を踏まえたうえで、

さらに複雑な事さえできたはずなのに、


ああ、それを踏まえたうえで

その複雑さを削ぎ落とすという方向に

乗り越えるのか……という驚き、感動があります。


こんなにシンプルな言葉で

こんなに美しい景が描けるのか、

こんなに美しい言語芸術が可能なのか、と。



1月11日 降りおもる軒ばの松は音もせでよそなる谷に雪折のこゑ


具顕と同じく

京極派揺籃期から東宮時代の伏見院近臣であった

楊梅(やまもも)兼行の詠。


京極派の歌の特徴はいくつかありますが、

“対比”という概念も把握しておくと

京極派らしさがよく見えてきます。


この歌も、上下句がシンプルかつ丁寧な対比になっていますね。



1月12日 山おろしの梢の雪をふく度に一くもりする松のしたかげ


京極派の提唱者、京極為兼の詠。


提唱者といっても、当初為兼の提唱した歌論、歌風は

いわゆる“京極派”的なそれとはまったく似ても似つかない、

二条派の価値観に反論するための反論

という感じでしたが。


元は“反論のための反論”だったものが、

京極派歌人たちの試行錯誤の結果

あれだけ美しい歌風に育っていった

という奇跡に、ため息が出ます。


この「山おろしの」などは、

初期の為兼詠のいびつさが洗練され、

私たちが“京極派”と言ってイメージする歌風に

合致していますが、


初期の為兼詠を見ると、なかなか驚かされますよ。笑


そんな話も、またいずれ。

今日のところはこちらをお楽しみください。


そういえば、Instagramのほうには

初期の為兼詠も紹介したのだったな。



1月13日 吹きおろす嵐の末の山かげは降るほどよりもつもるしら雪


大覚寺統、後宇多天皇の第四皇子、承覚法親王の詠。


きちんと調べていないので言い切れませんが、

出自だけを考えると、京極派ではないはずの人。


それなのにこの歌は京極派的で、好きだなあ。


入集も二条派系の『続千載集』なのに、

こういうこともあるのですね。



1月14日 花よたゞまだうすぐもる空の色に梢かをれる雪の朝明


為兼の姉、京極為子の詠。


初句の句割れが、いかにも為子、という感じ。


初心者には絶対に勧められない

手練の使うべき技法です。

それを易々と使いこなして、どこまでも為子だなあ……。


そういえば、二条派歌人にも

為世の娘、春宮時代の後醍醐天皇の妃である

「為子」という女性がいます。

「京極為子」「二条為子」とそれぞれ書いてあれば

間違いませんが、

このふたりの混同はよく見られるので、気をつけたいですね。



1月21日 雪げかとみえつるそらのうきぐもにやゝふりしむるゆふぐれの雨


再び源具顕詠。


具顕の歌は、たくさん残っているわけではありませんが、

その早すぎる晩年に近づくにつれ


「まだ『風雅集』はおろか

 『玉葉集』的な和歌も存在しなかったうちから、

 こんなにも『風雅集』の萌芽のような和歌が詠めたとは」

と驚かされるものになってゆきます。


病をはじめとした不幸を得た時、

それを、心を腐らせる理由に使ってしまう人と

心の曇りを洗い去るきっかけとして使う人と

に残酷に分かれます。


歌を読むかぎり、具顕は後者だったのですね。


ちなみに、実在の人物ではありませんが、

病にかぎらずいろいろな不如意を経験した光源氏は

前者の典型的な例です。



1月22日 冬の夜はあまぎる雪に空さえて雲の波路にこほる月かげ


新古今歌人に分類していのでしょうか。

宜秋門院丹後の詠です。


『新古今集』入集歌もあまた詠まれた

「千五百番歌合」での詠ですが、

入集は『新古今』の真逆と言われる『新勅撰集』。


歌自体はいかにも新古今という感じなのに。

こういう入集の不思議もあるのですね。



1月27日 月影は森のこずゑにかたぶきてうす雪しろし有明の庭


京極派といえば……の永福門院詠。


私なら四句を「うす雪しろき」として

句切れなし、体言止めにしますが、

このように四句で切りメリハリを入れるのもひとつですね。


きちんと調べたわけではありませんが、印象として

京極派和歌には四句切れが少ない気がする。


そもそも四句切れは難しく、成功例が少ないので、

特に初心者には絶対に勧めたくない型です。


まずは三句切れがきちんと詠めるようになりましょう。

その次が二句切れ。

初句切れや四句切れなんて、その先の先ですよ。



1月28日 今宵また風吹きさえて消えやらぬ昨日の雪に降りぞかさなる


二条資高詠。


二条は二条でも、歌道家の為世の二条は、

藤原北家道長の六男長家を祖とする御子左家で

(数代飛ばして)俊成、定家、為家、為氏と連なったもの。

為氏が二条家の祖となりました。

為世はその為氏の長男です。


資高の二条家は、道長の異母兄である道綱の裔。

うんとさかのぼれば同じ藤原北家に連なるとはいえ、

実質、別の家ですね。



2月2日 木の葉なきむなしき枝に年暮れてまためぐむべき春ぞ近づく


京極為兼詠。


冒頭にも書きましたが、京極派の歌風と冬歌は大変相性が良い。


京極派の春歌やその他の季節の歌にも

それぞれ魅力はありますが、

冬歌の厳しさに見える美は格別です。


京極派春歌に見られるような

“わかりやすい優しさ”はない代わりに、


冬の自然を見つめる視線の奥の奥に

本当の優しさがそっと控えているのが

じっくり鑑賞した読者にのみ感じられる、


というイメージです。


画像4



次回からは春歌のご紹介。

引き続きお楽しみくださいね。

画像5



PS.


死ぬほど和歌記事があるので

「もう読む記事がない」となることはまずない

梶間和歌ブログはこちら。


歌集『生殖の海』。


noteでの「サポート」を含め、ご寄付を募っています。


画像2


応援ありがとうございます。頂いたサポートは、書籍代等、より充実した創作や勉強のために使わせていただきます!