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【小説】ひさしからずや夢の如し 一

 ここから海は見えません。

 
 午後三時。暑さは日が傾き始めてから増すもので、貪欲に生い茂る木と花と雑草から立ち上った青い蒸気が、西から吹き付ける粉塵混じりの黄色く濁った風に乗り、瑞々しい春の光を浴びて虹色に輝くビニールのように、とろとろと辺り一面に垂れ込めています。額の汗がオークルの日焼け止めを割って滲み、一歩踏み出すたびにスカートの裏地が太腿に絡まります。

「あっつ……」

 いつも私は決まって、朝ごはんの片付けと一緒に晩のおかずの準備をしつつ洗濯機を回し、洗い終わった衣類と、寝室の布団やクッションはベランダへ出します。枕は寝室の南側の窓辺に並べて干し、続けて家中の掃除をしっかりと済ませてから、干した物を取り込み、枕もクッションもあるべき場所にきちんとセットして、ようやく買い物に行く準備に取りかかります。今の時期はいくら晴れていても、夕方が近づくと急に雲が低く降りて来るんですよね。そうでなくとも花粉やら何やらが飛んでいますから、今週は布団もクッションも、洗濯物だって日干しが出来ていません。最近は洗う食器や衣類の汚れ物の量が減ったものですから、そのぶん「時短」でルーチンをこなせる筈が、今日も買い物に出る時間が遅くなりました。スーパーの特売は四時から。急いで行けば三十分は店内で休める。私はそう思い、肌を整えリップを塗り、手早く身支度をして出掛けたのです。
 「各地で30℃超え」「観測史上最も高く」――冷房の効いたフードコートでブラックをお供にスマホを見ていると、幾つもこうしたタイトルの記事が流れてきます。フードコートと言っても地元のラーメンチェーンが一つと、お好み焼き等の軽食から甘味やドリンクまで出す店が入っているだけ。以前はうどん屋も出店していましたが、さっさと撤退してしまって。空の店舗のスペースはベニヤ板で覆われ、店や地域の掲示板に変わってしまいました。こういった場所は何処も大抵清掃が雑ですが、まあ自分の家ではないですし、安い割に珈琲が美味しいことや、平日のフードコートの閑散とした感じが、軽く一休みをするには丁度良いと思います。
 私が家事をしっかりとやるようになったのは、実は最近のことなんですよ。先月まではパートに出ていました。企業に勤めた経験を活かせる職場を探したものの、この片田舎でこの歳の女が採用される先なんて、豊富にはありません。電車の駅を四つ越えた駅前のショッピングモールに勤めていました。こういう所で働くなら、歩いて行ける距離は避けて選んだほうがいいと思いますよ。近所付き合いなら上手くやっていますし、接客にも自信があります。でも近場のスーパーに勤めてしまうと、しょっちゅう顔を合わせなきゃいけませんよね。煩わしいったら。珈琲を口に含むと、喉を通って空っぽの胃に流れ落ち温かく染み入ります。専業主婦に戻ってから段々と昼は抜く習慣が付きました。朝食をちゃんと摂れば空腹感はありませんし、昼に胃に何か入れると動けなくなりますから。斜め前の席にソフトクリームを持った客が来ました。乱雑に引いた椅子の足がテーブルに当たり、床を擦って嫌な音を響かせます。私は溜息をつき、立ち上がって売場に目をやると、気の早い客が一人また一人と店内に入って来ます。

「一寸買い過ぎたかな」
 
 随分とだだっ広い駐車場の、道を挟んだ向かいの家の生垣に見えるのは皐月でしょうか。今時分は躑躅(つつじ)が見頃の筈ですが、それにしては葉も花も小さいのです。無理もありませんね、だって四時を回ってもこの暑さ。自転車を使えばましになるのでしょうけれど、私、自転車が得意ではないんです。子供の頃母にしごかれて乗れるようにはなったものの、

「佳ー奈!ケンケン乗りは?怖がらんと、さっさとしいや」

 ハンドルを握り締め、ペダルに足を掛けたままよろけて膝を擦り剥き、体に痣を作って頑張った結果、苦手意識のほうが勝ってしまって。じゃあバスはどうかと言うと、スーパーの敷地の中に市営のバス停があるんですが、一時間に二本しか運行していません。ですから私は決まって徒歩。ええ億劫ですよ、でも運動をしない私にとっては良い習慣だとも思うんですよね。スマホのヘルスチェックアプリで一日に消化する歩数を設定し、この数よりも数字が越えることを日々の目標としています。やり始めたらハマってしまって、今では一万歩に到達しなくちゃ許せないと言うか。

「あんたいつまでおそろしがっちょるん」

 だからって食品の鮮度は気になりますよね。……このマイバック、保冷バックなんです。夫が好きなアウトドアブランドの物で、可愛いでしょう、マチもしっかりとしているし、買った物と一緒にドライアイスや氷を詰めておけば大丈夫。最近は買い物の量も減りましたし。
 義父母は別々です、同居はしていません。夫の実家は県境の向こう側にあります。近頃は畑を一つ潰して月極駐車場に変えたりして、お二人共元気でいらっしゃいます。夫は長男ですよ、でも上に姉がいるので……お義姉さんはお義父さんとお義母さんの家の近くに住んでいるんです。それに義姉さんのご主人も農家の出でいらっしゃるから、お義父さんとうまが合うみたい。だからと言って家も、記念日と盆正月には必ず夫の実家に顔を見せに行きました。この頃は一寸ご無沙汰していますが、代りに夫が顔を見せに行ってくれています。
 夫の隆は課長に昇進して以来、家に帰って来る時間が遅くなりました。サービス残業だなんて今時どうかと思いますし、ある程度部下にまわせばいいものを、生来朗らかで大らかに仕上がっている彼は、いつ何時もマイペースを貫き、彼を煩わせたり、彼のテリトリーを突つく理不尽に出くわさない限りは我慢強く、今の自分が置かれた状況を素直に受任します。若い頃は社会や社会に於ける自分の有り様に抵抗したのでしょうが、大抵のことはもう吞み込んでしまっていて、面倒なことは後回しにして、あるがままになすべきをこなすのです。

「スポーツクラブと言ってもまあ、最近はどこも良心価格だし」

 週末になると駅前のスポーツクラブに出掛けて行く夫。私にもおいでよと言いましたよ、彼は彼の好きなことに私をよく誘います。プロポーズも夫から。スポーツだって「二人で一緒にやれば歩くよりも楽しいよ」と。でも興味が湧かないんですよね。ちょっとそういうのは、違うんです。
 アスファルトの窪みの水溜まりを避けて信号を待ち、横断歩道を一つ超え、縦に長くない橋に差し掛かると、青い臭気がむっと鼻を突きました。
 もう三十年以上も前になりますか。市内の宅地造成の一環で河川が整備され、そのときに掛けられた二車線の短い橋。定期的に整備がなされているのでしょうが、ここの川原はいつも木や草が濛々と生い茂っています。ところが今日は川上のずっと向こうから順に二百メートルばかり先の所まで、低木も一緒にさっぱりと刈り取られています。SNSで見た話によれば、植物は刈り取られる際に強烈な臭気を放つのだそうで、さしずめ「声無き断末魔」なのだと書かれていました。そう言われると一寸気の毒になりますね、いけない、ほらあれ、丁度砂が溜まって平たくなった水際、あそこに千切れた鷺(さぎ)がいます。カーブを描いて反った細く長い首は捥(も)げ、風に散らばった羽毛が、雑草の間に絡まって震えています。死骸は昨日か一昨日にはもうありました。可哀想だし怖いから見ないようにするつもりだったのに忘れていました。
 後ろには真新しいマンション、橋を渡り切った堤防の下には住人と同様に老いた家々、空き家、リフォームの途中の二階家と、畑、床屋、鴉、祠。都会に住む人の目にはのどかに映る景色でしょうが、実際にはちぐはぐなんです。行きがけに強く吹き付けていた風が止み、時期外れの油照りが首や腕をじくじくと炙ります。日焼け止めを割って汗が滲み、肩に掛けたマイバックの持ち手が、シャツのとろみのある生地を捩って皮膚に食い込みます。
 ああこのシャツですか?これは元々娘の服なんですよ。こういったデザインの物は年齢に関係なく、誰でも着こなせますね、まあサイズの問題はあるでしょうけれど。娘が一人暮らしを始めて一ヶ月、いいえ二ヶ月が過ぎました。大学に入ってから始めたバイト代を貯め、思い立ったが吉日とばかりに出ていきました。主人が言うには、娘は前々から一人暮らしの夢を漏らしていたそう。子供はいつか親元を離れて行くものですが、だとしてもまだ先の話だと思って聞いていたし、ママには内緒にしてと頼まれたものだから黙っていたと言うのですね。「ママは反対するに決まっているから」と。
 忙しい仕事の合間を縫っては育児に参加し、妻のフォローも子供のフォローも出来るよう努力していると自負する、実際には手の掛かる物事の殆どを妻に任せっぱなしで、子育ての楽しい面には参加する父親って、どこにでもいるのと違いますか。ところが子供にとっては何かと五月蠅い母親以外の家族が、我が家の場合はいつもパパが、娘の助け舟の船頭なのです。そのパパ自身からして今回の引っ越しには驚かされたと言うのでした。

「ごめん、ごめんねって。俺も知らんかったっちゃ」

 私がパートに出ている間に、娘が通う大学のサークルの皆さんが引っ越しの作業をしてくださいました。仕事が終わってスマホを見ると、娘から事後報告と謝罪のlineが届いていました。本当に、あっという間でしたよ、朝「おはよう」を交わしてパートに出て、夕方帰ったらいないんですもん。翌日私は職場に風邪を引いたと言って休みをもらい、早速娘の所に向かいました。
 あの子は部屋にまだ服や漫画、要るのか要らないのか分からないメイク道具や小物を残しています。新しい部屋の片付けだって、一人じゃ作業が進まないでしょう。それに前日私は娘に小言を散々返信したものですから、差し入れをしようと思いました。飲み物はノンアル系……まだ昼前でしたからね。後は甘めの卵焼きと粗挽きウインナー、粉チーズをまぶした唐揚げと、あの子がまだ小さい頃、保育園の年長さんだったかしら、園内の植え込みでピーマンを栽培したことがありまして。それ以来我が家の定番となったピーマンのしぎ焼きを沢山作り、棚に仕舞ってあった新品のタッパーに見栄え良く詰めました。そして昨日買っておいた赤と白のチェックの紙袋に、容器が傾かないよう丁寧に入れました。他にも軍手一袋と拭き掃除用のシートを用意して、この日の私は特別にタクシーを使いました。娘のアパートは歩いて行き来出来る距離にあるものの、冬場はすぐに日が落ちます。さあまず何から片付けようか考えているうちに建物が見えて来ました。アイボリーの長方形を横に寝かした二階建てに、栗皮色のドアが幾つも並んでいます。広くない駐車場の手前の角が煉瓦で囲ってあって、アパートの名を描いた看板と一緒に、背が高くて細い木が一本とパンジーが植えてあります。部屋のドアのチャイムを押して暫くしてからチェーンロックを外す音がしました。何だかわくわくします。私もアパートに行くよと言わずに来たものですから。

「おーいママだよ、来たよお」

「え、え?ママじゃん。あ、何か持ってる何々い?」

 子供らしく喜ぶ娘に招かれドアを潜ると、玄関の狭いたたきに靴が幾つも並んでいます。部屋には娘の友達が数人いて、皆で片付けをしている最中でした。最初は口々に挨拶を、最後は声を合わせて一緒に挨拶をしてくれる様子が可愛らしい、若さに毒のない、人懐こくて良いお嬢さんばかり。差し入れを渡すときゃあきゃあと喜んで感謝を叫び、ツッコミ係の娘は始終照れ臭そうにしていて。

「あはは、まあまあみんな有難うね。じゃあママは帰るけえ」

 テーブルにはもう飲み物と、食べかけのピザがありました。


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