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雑感:政治家の幼稚化~政治家の目線の先にある物は?~

 どうも!おはようございますからこんばんわ!まで。

 通常国会が閉会し、巷では衆院選前の試金石みたいな捉え方をされる東京都議会議員選挙をはじめ、混迷を極めている東京オリンピックと衆議院銀選挙に向けて色んな事柄が目白押しです。一方で、近年目立つのが政治家が発する言葉や言動になんら重みを感じないことです。ここ最近はまともにコミュニケーションをとっているという訳ではありませんが、知っている政治家も何人かいて信用に値する方もいますが、総じて想うのは政治家が発する言葉や言動になんら重みを感じないこと、それは即ち政治家の幼稚化だと私は考えています。今回はこれをネタに書いてみたいと思います。

1.ハマコーが元気な頃

 今の10代・20代,もしかたら30代には馴染みが薄いかもしれませんが、昔の政治家にはこういう暴れ馬みたいな政治家がいました。

 ハマコーの愛称で有名な故・浜田幸一氏です。幼少期無駄に社会や世の中の動きに関心のあった私は、ビートたけしのTVタックルを一時期好き好んで見ていた時期があり、その時ハマコーさんを知りました。政界の暴れん坊という異名を持つハマコーさんですが、今再び彼を懐かしんでみて思うのは、発する言葉の1つ1つに重みがあることとお金の使い方が上手い部分にあるからだと私は思います。

 上記の動画は、ハマコーさんが晩年出演されたテレビ番組での一コマです。この中で、国対(国会対策委員会)の一員として反対勢力を料亭に招いてお金を配る役割を担っていたとのことです。ハマコーさんが政治家だった頃の日本の政治は、リクルート事件をはじめとしたいわゆる金権政治と呼ばれるお金を介して駆け引きを行っていた時代で、それをきっかけとした政治腐敗が常に問題視されていました。しかし金権政治という側面で見れば、先般実刑判決が下った元衆議院議員河井克之氏の政治資金規正法違反の事件や妻で元参議院議員の河井案里の事件等、お金を巡る問題が後を絶ちませんが、今と昔の政治と金を比較する中で何が違うのかなぁ?と考えてみた時、私は2点あるのかなと考えました。1つはルール(法律)との付き合い方、もう1つはお金の意味です。

 政治史研究の大家である御厨貴氏の東京大学での最終講義をまとめた著書『知の格闘: 掟破りの政治学講義』の中で、次のお話をされていました。

 昭和40年代前半、時の内閣総理大臣佐藤栄作が田中角栄を党の要である幹事長にするか内閣の要である官房長官にするかを考えて官房長官に据えようとしたとき、田中角栄はこれを固辞したそうです。当時佐藤栄作の考えにあったのは「政治は数である」一方でそれを信奉していたのではなく、彼なりの威厳という風圧によって田中角栄を抑え込める自信があったそうです。そして、その対抗策として田中角栄が持ち出したのがお金だと言われています。つまり、お金の使い方が上手かったという事なんだと私は思います。

 勿論金権政治そのものを賛美するつもりはありませんが、お金と政治という絡み方を見た場合、ハマコーさんが元気だったあの頃の政治家は今の政治家と比べてお金の使い方が上手だったからこそ政治家としての重みがあったのかもしれません。

2.小選挙区制が軽い政治家を生み出した?

 一昔前の日本の選挙制度は中選挙制という仕組みがとられていました。簡単に言うと、1人が持つ1票は1票としての効果しか持たないが、1つの選挙区から複数の当選者が出る仕組みです。中選挙区制最大の問題点は同一政党内での激しい派閥争いをはじめとした競争です。そこで、1996年の衆議院銀選挙で導入されたのが現在に活き続いている小選挙区比例代表並立制です。そして、この選挙制度では旗から見ていても果たしてこの人政治家なん?という軽い政治家が数多く表れたのも事実です。そこに警鐘をならしたのは今は亡き政治評論家の三宅久之氏です。

 三宅氏は沈香も焚かず屁もひらずという諺を用いて、今の政治家は毒にも薬にもならない奴らで溢れていると表していました。

3.最後に

 政治家の幼稚化が今まで以上に際立つのが現在なのかな?と思う過程において、果たして政治家が国民から真の意味で信頼を取り戻せる日が来るのか?という部分を俯瞰しながら見つめていきたいと思います。

 

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