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源通親の哀傷歌

前回の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」、後鳥羽院と源通親が不穏な感じで登場しました。源通親は九条兼実と時に対立しつつ、当時の政界で権勢をふるった博陸(実際には関白にはならず)と呼ばれた政治家です。しかし、同時に歌人でもありました。
 
『新古今集』哀傷部には、我が子通宗に先立たれた父通親の無念を詠んだ歌が収められています。詞書は「左近中将通宗が墓所にまかりて、よみける」。我が子の墓に参るという、このうえなくつらい状況です。

おくれゐて見るぞかなしきはかなさを憂き身の跡となに頼みけむ(『新古今集』哀傷・八四〇)
(後に残されて我が子の墓を見るのは悲しい。この墓をどうして我が身を埋葬する地と定め、あてにしていたのだろうか。)
 
通親の嫡男通宗は31歳で他界しています。この通宗は女房たちに人気の公達でした。例えば、『建礼門院右京大夫集』。豊明の節会の夜の通宗の美しい姿は記憶に残るほどだったようです。
 
豊の明りの節会の夜、冴えかへりたる有明に、参られたりしけしき、優なりしを、ほどなく亡くなられにし、あはれさ、あへなくて、その夜の有明、雲のけしきまで、形見なるよし、人々常に申し出づるに(略)
 
九条兼実も将来に期待を寄せた子息良通に先立たれていますし、後には良通の弟良経も急死しています。栄華を極めた藤原道長も娘に先立たれ、葬儀では一人で歩けなかった様子であったといいます。
 
もうすぐ盂蘭盆です。先祖の霊が戻ってくる時期で、墓参が行われますが、昔は年末、大晦日にも先祖の墓参が行われていました。亡くなった人の魂が戻ってくるので、「魂祭り」も行われていたようです。四国在住の母に聞きましたら、昔、年末には墓参を行っていたとのこと。
 
『吾妻鏡』建長2年(1250)12月29日条には、「奥州(重時)・相州(時頼)令巡礼右大将家(頼朝)・左(右ヵ)大臣家(実朝)・二位家(政子)并右京兆等御墳墓堂々給」と、北条重時・時頼が頼朝・実朝・政子・義時の墓参を行ったことが記されています。(勝田至『日本中世の墓と葬送』吉川弘文館)

九条兼実の先祖の三墓(鎌足・不比等・道長)重視と墓使派遣については、谷知子『中世和歌とその時代』(笠間書院)をご参照ください。
 

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