見出し画像

文豪図書室へようこそ!

本日のボクは、朝からご機嫌ななめである。

寝る前にセットしたはずの目覚まし時計はならず、寝坊した。ママに「夜遅くまでゲームしているからよ!」と怒られながら、布団をひっくりかえされたから遅刻はしなかったけれど。一度止めるとなり止む目覚まし時計とは違って、ママの雷は一度落ちるとしばらくなり続けるから大変だ。

学年が上がるごとに分厚くなる教科書を何冊も詰め込んだ重いランドセルを背負って、いつもと変わらない風景を歩いていると、アンバランスに積み上げれたつみきが崩れて落ちたとばかりに、近所の犬にひと睨みされてガウッと吠えられた。

はぁ、と大きく息を吐きながら、戸をからりと開く。
同じクラスでちょっと気になっている、おとなりの席の海ちゃん。
ボクの存在に気づいて欲しくて

「おはよう、海ちゃん!」

と、勇気を出して大きな声で元気よく挨拶をしてみたけれど、見事に空振り。手元の本に夢中で、海ちゃんはこれっぽちも気づいてくれなかった。

窓からさんさんとふりそそぐ、お日さまの光が気持ち良くて、おもちゃの水飲み鳥みたいにこっくりこっくりと首を上に下に、眠気と戦っていたら先生に見つかってしまった。その先のことはボクの口からは話したくない。

はぁ、と。今日だけで何度ついたか分からない大きなため息をはく。ボクは困りに困って、広げたノートの上に国語の教科書を投げつけた。

「この時のメロスの気持ちを考えなさいって言われても分かんないやい!」

もっと叫びたい気持ちをおさえて、髪の毛をぐしゃぐしゃにかき混ぜて、体を後ろに伸ばす。イスの背もたれをこえた体が、こんにゃくみたいにくにゃりと曲がり、本が逆さまにうつる。授業をきちんと聞いていなかったから、ボクだけ居残りになってしまった。さっきまで先生も一緒に居たけど、ピンポンパンポーンとマヌケな放送の音が入った後、ボクにひとことふたこと残して居なくなってしまった。

しん、とした図書室。この部屋はいつも、ほとんど静かだ。

たまに海ちゃんが空気みたいにすぅっとこの部屋に入って、ひとり本棚の前でじぃっとタイトルを見つめ、やがてニッコリと口の端をあげて「今日はコレ」とばかりに人差し指いっぽんで本を取り出す姿を見かけるけど、何が楽しいのやら。ボクにはサッパリ理解できない。

「こんなえっらそうな態度をした人が書いたお話なんて面白いものか」

お話の最後に写っている頬杖をした写真に向かって、えいっと鉛筆を投げる。すると、まるでデコピンをしたみたいに、写真の中に居るおじさんの額にコツンと鉛筆の芯の先があたって、とたんにボクは愉快になってお腹をかかえてゲラゲラと笑ってしまった。

すると、外からごうっと風が入ってきて、ベージュ色のカーテンがぶわっと揺れた。

「わぁっ!」

ビックリして、目を閉じる。
しばらくして風がなくなったのを確認して、また開く。目の前におじいちゃんが着ているふうの着物を着た男の人が、のっそりと大木のように立っていた。

「わわっ!」

さらにビックリして、イスごと後ろにひっくり返りそうになる。この人はいつの間に、図書室に入ってきたのだろう。机をはさんで、ボクを見下ろすように背中を丸めたおじさんが、今目が覚めましたとばかりにパチクリと目を開くと、ようやくボクの姿を認めて、ややっとばかりに眉を曲げた。

「私の額に鉛筆を刺すとは失敬な」

なんか難しい言葉を言っている。意味は理解出来なかったが、やや怒っていることは分かった。

「おじさん、だれ?」
「私? 私か。コレがわたし」

そう言って、おじさんは国語の教科書に写っていた作者の写真を指でさした。ボクは驚きのあまり、ぽかーんと口をあけてしまった。先生が居なくなったことを良いことに、ボクはまた居眠りをしているのだろうか。ゲームの世界に飛び込んでしまった夢を見ているに違いない。ためしに頬をつねってみた、めちゃくちゃ痛かった。

おじさんは頭がまわらないボクのことなどお構いなしで、国語の教科書を手に取ると興味深そうにパラパラとめくり「ほぉ」と感心したように言った。

「メロスは激怒した──あぁ、走れメロスか」
「そうだ、おじさん! この時のメロスの気持ちを教えてよ!」

おじさんが本当にこのお話の作者なら、答えを知っているに違いない。頭の上に豆電球がピッコンと光ったボクは名案とばかりに、おじさんに期待を投げかけた。だけど、おじさんはボクの考えとは反対に、顎に手を置いてうんうんと悩んでいる。
やや間をあけてから、おじさんはドタドタとガニ股で歩いてくるとストンとボクの横にあったイスに座る。図書室と同じ、ホコリっぽい、古い本と同じ、ヤケに鼻につく独特の匂いが強くなった。

「むむっ、それは難しい質問だな」
「そうなの?」
「たとえば、この窓から見える風景を見て、キミはどう感じるかね」
「え、いつも見ている街の風景だなぁ、って」

うんうんと、おじさんはうなずく。

「私には山がひとつとしてない、まったいらな平野にビックリしたよ。今にも地平線が見えそうじゃないか。こんなにも広大な田園風景を見たのは久しぶりだ」

おじさんの故郷は山に囲まれていたからねぇ、としみじみと呟く。

「分かるかね。同じものを見ていたとしても、人は異なる感想を抱くものだ。それは物語とて同じ。そして、それのどれもが正しいとか間違いとか、ぱっきりと二通りに分けられるものでもない」
「そうなの?」

ボクは納得がいかなくて、おじさんに飛びつく勢いで続けた。

「だけど、先生は言うんだ。それは違うって。テストでもそうさ『せいかい』を求められる」
「そうだろうねぇ。先生にとっての『せいかい』は行儀の良い、大人にとって都合の良いものだからね。かと言って、曖昧なまま、線引きしないワケにもいかない。いわゆる大人の事情ってやつさ」

私からすればその時のメロスの気持ちなんて一切何も考えてもいないし、決めてもいないからねとおじさんは曖昧に笑う。

「帰りを待つ友のために一生懸命、走っていたメロスだって『お腹が空いた』とか『このまま逃げ出したい』とか『眠い』とか『だるいなぁ』とか、一瞬たりとも考えなかったかと言われると、私には到底思えない」
「けど、それを書いたら先生にバッテンをつけられちゃうよ」
「そんなもの、何を書いたって一緒さ。だったら、キミが素直に思ったことを書けばいい。それをバッテン──間違いだと言うのなら、「その話を書いた僕と会ったこともない人に何が分かるんだ」って心の中では鼻をならして、笑ってやればいい。表立って言うんじゃないぞ。いわゆる大人は図星とばかりに怒って誤魔化そうとするから、適当に笑ってえいやと怒られてしまえばいいのさ」

おじさんもいわゆる大人のくせに、まるでそこに自分が分類されていない人みたいに、いたずらっぽく笑う。

「じゃあ、勉強する意味ってないのかな」

ボクがポツリと言うと、おじさんは腕を組んでむむっとした顔をした。

「まぁ、それは、うん、ちょっと。私もあまり勉強は好きな方ではなかったが……」

おじさんは言いにくそうに、首の後ろをさすりながら歯に物が挟まったかのようにモゴモゴと話す。

「勉強はしておいて損はない。何をするにしても必要なことだ」

国語では漢字や文章の書き方をを学べる。
理科では自然を通して観察することを学べる。
社会は地球の成り立ち、歴史を学べる。
算数は──書き終えた原稿の枚数を数える時に必要になる。

おじさんはニカッと口を開く。金色の歯がチラリと見えた。

「勉強とは自分の中にありとあらゆる知識を与えてくれる。私も勉強は嫌いだったけれど、話を──小説を書く上で手助けとなった。小説を書くとは、自分探しの旅に出るようなものだからね。自分という意識の海を通じて、たったひとりでもぐり、探し求めていたたったひとひらの言葉を見つける孤独な旅なんだ」

今度は寂しそうにふっと笑う。

赤ちゃんみたいにコロコロと変わるおじさんの表情を見つめながら、そういうものなのかなとボクはぼんやりと受けとめた。

この頃にはすっかり、ボクはおじさんと打ち解けて、親近感を感じていた。

「おじさん、えっらそうな人じゃないんだね」
「まさか」

国語の教科書にあるおじさんの写真についてしまった鉛筆の跡を、消しゴムで消しながら問いかけると、おじさんは膝を叩きながらカラカラと笑った。

「私とてキミと同じ、血肉の通った人間だもの。笑ったり、怒ったり、泣いたりするさ」
「好きな人とか、嫌いな人も居たの?」
「居たさ。尊敬する人も、苦手な人も、嫌いな人だって居た。師と仰いだ人や友と呼べる人も、たくさん居た」

教科書に載るようなおじさんだけど、ボクと変わらないひとりの人間なのだ。気がついたらボクはおとなりの席の海ちゃんの話をしていた。

「ほほう、その女の子は私の書いた浦島太郎に出てくる乙姫のような子だね」

おじさんはスクッと立ち上がると、本棚の間に大股でズカズカと入っていく。帰ってきた時には手に一冊の分厚い本を持っていた。ボクが「うへぇ」と声をあげると、「そうイヤな顔をするな」とニヤリと笑いながら真ん中あたりからページを開き「あぁ、ここさ」と指をさす。

おじさんが指をなぞりながら、言葉に出して読み上げる。途端、物語に命が吹き込まれたようだった。ボクは夢中になって物語にのめり込む。

「本当だ、海ちゃんみたいだ」

浦島太郎にまったく興味を示さず、自分の意のままにふわふわおっとりと過ごす乙姫様。ボクがしっている浦島太郎とちょっと違ったけど、とてもワクワクした。

気がつくと、窓の外の空は真っ赤に燃えがっていた。

見ただけで頭が痛くなるような分厚い本だったけれど、もっと読みたいという気持ちが泉の水みたいにわいて、ボクは本の一番後ろにあるポケットから貸出カードを取り出し、名前を書いていた。するとボクの名前を見て、おじさんは目を丸くしていた。

「あのね、ボクの名前はね。ママが昔好きだった人の名前だったんだって」

近くで新聞を読んでいたパパに聞こえないように、内緒話よとママはボクの耳元でささやいた。そういえばあの時のママの表情は、本を覗き込む海ちゃんの顔とよく似ていた。

「そうかそうか」

おじさんはそれは嬉しそうに笑って、ボクの頭を何度もなでた。

「おじさん、また会える?」

おじさんは笑っているような、泣いているような曖昧な表情を浮かべた。

「私に?──私はいつだってココに居るよ」

そう言って、おじさんは本棚につまった本を見つめる。

「いつでも会いにきておくれ。そうすればきっと、今日のようにキミが必要とするその時に、必要な言葉をあげられるかもしれない」

すると、外からごうっとまた風が入ってきて、ベージュ色のカーテンがぶわっと揺れた。目を開くと、おじさんの姿はもうなかった。

自分から職員室へノートを届けにいき、その足でボクは家へと帰った。行きのランドセルよりも本一冊分重くなったはずのそれは何故だか軽く感じられた。朝は吠えてきた犬も、軽やかな足取りで歩くボクの姿に、手に顔を埋めて上げようともしない。

「ただいま」

玄関の扉を開いてママの顔を見たら、今朝怒られたことなどすっかり忘れていたボクは、図書室で起きたふしぎな出来事を、時間が惜しいとかばかりに話した。ママはボクの言葉を最後まで頷きながら聞き終えると、いつもの笑顔でボクを迎えてくれた。

「お帰りなさい、しゅうじ」

次の日、

「海ちゃんはこのお話に出てくる乙姫様みたいだよね」

ランドセルから取り出した本をかかげてボクが言うと、海ちゃんは初めて本を覗き込んでいた視線をボクへと移して、

「なにそれ、失礼ね」

とニッコリと目を細めて、鈴をころがすような声で笑ってくれた。

転職活動一発目の面接で心が折れた精神惰弱なわたくしに、こころばかりのサポートいただけると大変嬉しいです。