ボーダレスな「わたし」。勇気と安心のために「わたしたち」という言葉を使うという話。

 尼崎の藤本です。交換日記っていいですね。山口若葉さんから問いかけをもらいました。「なんで主語がWeなの?」。わたしよりもわたしたちという言葉を使うことが多いよね、どうしてなの?というご質問ですね。うむ、なるほど。頑張って考えてみます。

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 わたし個人が大切にされることは、大変価値のあることだと思っている。ラベリングやカテゴライズされることなく、その人がその人として認められ、いきいきできる社会。

 一方で、人は誰かと支えあったり、協力しあったりしながら生きている。そうしたとき「わたし」の人生や生活を成り立たせているのは、「わたし」だけなのだろうか。と、そんなことを思う。

 「わたし」という存在の輪郭は、それほどにくっきりしているものではない(身近な誰かがイライラしていたら自分もイライラしてくるし、目の前においしそうなものが出てきたらお腹が空いたような気になる)。他者や環境に多分に影響を受けながら「わたし」は存在している。

 自分の言葉や考え方だってそう。意識的に取り入れている考え方や習慣もあれば、勝手にそうなっているものもある。そもそも僕が日本語を話していることだって自分で選んだものではない。

 となると、やっている仕事やアウトプットだって、どれも「オリジナル」なものなんてない。だけどそれは「僕たちはオンリーワンではいられない」と絶望しているということではない。存在そのものは間違いなくオンリーワン。その上で僕が言いたいことは「自分が今まで生きてきた過去を受け止めながら、今を生きることが大事なんじゃないかな」ということなんだと思っている。

 あのとき辛かったあのことも、聞きたくなかったあの言葉も、自分が未熟で傷つけてしまったあのことも、全部。それらは全部、誰かや何かとの関わりの中で起こったこと。もし、今の自分を肯定して生きることができたのなら、今の暮らしや人生がとっても楽しいものであるのなら、そういう過去も(反省や後悔はしつつも)大切にしながら生きていくことができるのかもしれない。

 だから僕は、「I」という主語ではなく、「We」という主語を使いたい。過去につながっていた何かに、誰かに、自分は今生かされている。自分という大変あやふやな存在に輪郭を与えてくれるのは、常に他者であり環境であると思う。

 自分の仕事や活動だって、自分だけの成果になることはないと僕は思っている。自分の努力もあるだろう。でも、努力できる環境は自分だけの力で整えたものではない。それは、周りの仲間が与えてくれたものであり、実際に関わって与えてくれた時間とスキルの賜物でもある。

 そしてきっと「自分だけでしょいこまなくてもいいんだよ」という意味も含めて僕は「We」という言葉を語っている。みんながやさしく支え合う社会を夢見たい。

 わたしたちの暮らしはわたしたちでつくっていく。もともとプライベートという概念は、語源的には「剥ぎ取られた」という意味だそう。何から剥ぎ取られたのかというと「みんな(公共)」から剥ぎ取られたのだと。

 関わり合うことでこそ、顕在化する個性。個性が「ビジネスチャンス(ご飯を食べられる糧)」になる時代だからこそ、その個性から生まれた余剰を何に、どこに還元していくのか、というところはとっても大事なポイントだと思っている。

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 ということで真面目な文章になりましたが(笑)、個性ってなあに?どう思っているの?どんな個性を見てきた?みたいなお話でお返事いただけますとうれしいです。

(文・藤本遼)


山口若葉さんと藤本遼さんの期限付き(6月に行うイベント当日までの)交換日記。コミュニティやらデザインやらソーシャルやらについて、うだうだと語ります。