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祖父の軍歴証明書を取り寄せた話(後編)

(前回のあらすじ)ロシア在住日本語教師の友人を訪ねようと企画した旅は、シベリア抑留者だった祖父の足跡をたどる旅でもありました。コロナ禍のため、今年は旅にできることはかないませんが、いずれ祖父の痕跡をたどる旅をしたい。

とはいえ、祖父は応召された後、いつ大陸に渡り、どこで終戦を迎え、いつ復員したのか、全くわかりませんでした。わたしは祖父の口から戦争のことを聞いたことはなかったのです。

いつしか祖父の人生を知りたいと思うようになり、ロシア行きもあいまって、「シベリア抑留」について調べたり読んだりするようになりました。そんな中、軍歴証明書というものがあることを知り、早速取り寄せると、そこにはわたしの知らない祖父の人生がありました。

昭和15年に応召され、中国戦線を戦いました。昭和18年に内地帰還。それが1度目の応召でした。

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昭和18年結婚
昭和19年応召

2回目の応召では、入隊まもなく博多港から釜山に上陸、そのまま満州へ行ったことがわかりました。満州では移動を繰り返しながら演習をしていたと書いてありますが、それがどのようなことなのかはさっぱりわかりません。

軍歴証明書は1945年4月の記録を最後に「以下余白」となっていました。

その時期は大日本帝国が、満州国が崩壊していく序章のようなものだったのかもしれません。そこから、祖父がどうなったのか知る由もありません。想像するに、満州で終戦を迎え、そのまま捕虜となってシベリアに送られたのでしょう。

長女である母が昭和24年生まれであることを考えると、復員したのは昭和23年ごろなのかなと推測できます。祖父は3人の子どもにも戦争中のことは語らなかったようです。

時々、お酒を飲んでは、シベリアで草の根を食べて生き延びたというようなことを武勇伝のごとく語っていたと母が語ってくれました。ただ、そのようなことも母が子どもの頃だけだったそうです。

祖父の帰りを待ち続けた祖母でしたが、祖父を残してあっけなく亡くなります。祖父は「自分が死んだほうがよかった」と言って肩を落としていたのだそうです。祖父は晩年、最終的に老人ホームに入ることになりました。

それが気に入らず、母に「こんなところに連れてこられるくらいならロシアにいた方がましや!」と言って怒っていたそうです。

捕虜となったときは日本で待つ両親と妻がいたけれど、老人ホームに入れられた老人の帰りを待つ人はいないからです。次第に祖父は母のこともわからなくなり、その後、89歳で亡くなりました。

もし祖父が戦争で命を落としていたら、母もわたしも娘もこの世に存在しません。

それを思うと、あの悲惨な時代にあって、祖父がどのようにして命を繋いでくれたのか知ることは祖父に対する恩返しのような気がします。語らなかったのではなく、語れなかった祖父の言葉を、探し続けたいと思っています。


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日本語教師でライターが日常をみつめるエッセイです。思春期子育て、仕事、生き方などについて書きます。

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