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過去

中学2年生の秋

私は学校に行けなくなった



そうなる少し前のことだ

給食を片付けようとする私に友人が

もう食べないの?

と言った

視線を落とすと
そこには配膳された時と
ほとんど量が変わらないままの給食があった


そこで初めて
ご飯が食べられなくなってる
と自覚した

なので、いつからそうなっていたのか
自分ではわからない

自覚してしまってからは
あっという間に具合が悪くなった

夜、耳鳴りがうるさくて眠れなくなった
朝、体を起こせなくなった
学校が始まる時間になると
行けなかった焦りで涙が止まらなくなった

途方もなく
このまま自分の人生は
どん底のまま進んでいくのだと思った


当時、我が家には不登校の3歳上の姉がいた

ある時
母と話がしたくて
両親の部屋を開けた時

姉のことで悩み泣いている母と
それを慰めるように寄り添う父と目が合った


無言で部屋を出た

見なかったことにした


これ以上
両親に負担にならないよう
自分はなんの感情も
両親にはぶつけないと決心した
両親には、姉のことだけ考えてもらえればいいと
自分のことはなるべく忘れて過ごしてもらっていいと思った

そうしているうちに
疲れてしまったのかもしれない

不登校と言えば

イジメか
家庭環境か

なにか決定的な理由があるように思えるが
私の場合はそうではなかった

どちらもそこそこうまくいっていて
どちらにもそこそこストレスを抱えていた

学校に行けない焦り
迫る受験
わからなくなる存在意義
迷惑をかけたくない親に
最もさせたくなかった心配をさせている不甲斐なさ

身動きをとろうにも
時間が経つにつれて
少しずつその範囲は狭くなっていった

クラスメイトに会うのを避けるため
スーパーやコンビニにも行けなくなった

保健室に登校するようになってからも
カーテンを締め切り
1人で机に向かい
分からないところは授業中に職員室に向かった
テストは特別に別室で受けさせてもらった


そんな私にも友人がいた

給食を運んできてくれたり
休み時間に会いに来てくれた

しかし
教室には入れなかった

中学2年生の秋から卒業まで
私は1度しか教室に入っていない

それも、英語の授業を1コマ受けただけだ


担任には
あんたは八方塞がりだと言われた

何も言い返せなかった


独学で臨んだ受験は
無事に合格となり
高校生になってからは
所謂“普通”に学校に通えるようになった

するとどうだろう

八方塞がりと言われた私の人生は
たくさんの選択肢を獲得すると共に大きく前進した

しかし
高校の友人に
自分の口から不登校だったと言えたことは
1度もない

同じ中学校から進学した子が何人もいたので
知っていて知らないフリをしてくれていた友人もいたと思う


不登校の時、当たり前のように
空気として私を扱った人
変わらず仲良くしてくれた人
不登校になってから仲良くなった人
高校に進学し、手のひらを返したように接してくる人

色々な人を見てきた

だからと言って
誰が悪いとも思わないが

大学の時
幼なじみとご飯を食べに行った際

「あの時、何も出来なくてごめん」

と泣かれたことがある

何もなかったかのように接する私と
何もなかったかのように関わることが
苦しかったそうだ

その言葉がなければ
その友人は
高校に進学し、手のひらを返したように接してくる人
に分類されていただろう


当時の自分に
どうにかなるから大丈夫と声をかけたい
どれだけ狭い世界で生きているのか教えたい
私になにかしたいけどできず、悩んでいた友人がいたことを教えたい

ひとつの物事も
1歩引いてみたり
時間が経ったり
人の関与があると
全く違って見えてくるものだ

不登校になったことを
後悔したことはない

私も姉も
進学、結婚、出産と
世間一般的には
“普通”で“順調”な今がある

とても今の私や姉から
不登校だったことを予測できる人はいないだろう

あの経験を
良かったと思うことさえある

しかし、たまにこうして吐き出したくなるのだ

今日はそんな日だったのだ



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