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薄れゆくものを育む心

「吉野」といえば「桜」。
まるで枕詞のようだ。
そんな桜の名所として平安の頃より名高い「吉野」が修験の土地だったことを知ったのは、恥ずかしながらつい数年前のことである。
そして「吉野の桜」は信仰の象徴であったということも、そのときに初めて知った。


「山伏女将」という人がいる。
まだ30代前半だから、「山伏」「女将」という言葉から連想される年齢よりもぐっと若い。

そんな彼女の書いた「忘れ去られつつある修験という日本文化の根源」が興味深い。

そもそも #ともに祈ろう という動きがあったことさえ知らなかった私は、「宗教」という、ともすれば戦争に至るほどの大きなものが、今の困難を救うべく、ひとつのことをともに行っている、ということにまず感動した。

ありがたいことだ。
バラバラに祈られるよりも、ずっとありがたいことだと思うし、こういうことができる国だということがなんだか嬉しい。


率直に感じたのは、確かに修験道というものはひとつの宗教だと捉えにくいだろうな、ということだ。
なにせ、よく分からないのだ。

宗教というものに知識のない私からすると

キリスト教は、大いなる父とその分身である現人神イエスキリストを信仰するもの。
仏教は、仏陀の教えを信仰するもの。
神道は、八百万の神々がいて…?

みたいな感覚しかない。
もちろん同じ宗教でも枝分かれして様々な信仰があるのだから、こんなにざっくりしたものではないのだろうけれど。

そして修験道は、宗教というより、修行の方法。ぐらいの捉え方である。
山岳信仰なのか?
それともどこか微妙に違うのか?

うん、わからない。

ただ、「御山」という感覚は理解できる。
不思議なもので、以前中学生と「山は信仰の対象になる」という話をしていたとき、なんの違和感もなく彼らはそれを受け入れていたし、その感覚を理解していた。
私たちの文化の根っこには、自然に対する畏敬というものが根付いている。



彼女は「半僧半俗」といって、僧人でもあり俗人の生活もしており、といった立場であるようだ。
この「半僧半俗」については、賛否両論あるようだが、個人的には、完全に出家していない人だから語れる言葉があると思っているし、何かと何かの中間に立つ人がいるというのは相互理解を深めるために大切だと思っている。

なぜなら、完全に出家して日々修行をつんでいらっしゃる方に「修験ってそもそも何?」とか「なんで出家したの?」というのは聞きにくい。
「修験道って何を信仰してるの?」「山岳信仰なの?」「何が目的なの?」
うん、聞けない。
私がチキンなだけかもしれないが。
だから、こういう、どちらの立場にもある人、というのは率直にありがたい。
なんとなく、こちらの気持ちを汲んでくれる気がするし、わかりづらい部分を噛み砕いてくれる気がする。

ぜひ彼女には「山伏女将」を貫いてほしいし、現状薄れていっている日本文化のひとつだろう「修験道」とそれに纏わるあれこれを、知識のない人が気軽に言葉を交わせる距離感の中で育んでほしい。

いつか彼女のトークイベントを聞いてみたいと思っている。

そしてまた吉野に足を運びたい。

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