SNS (掌編小説)

知人にSNSの利用を勧められたので、登録し、母校のコミュニティに入ると、穴空きではあるが、学生名簿を思わせる、懐かしい名前が並んでいた。名前を指で撫でると、個人のページで、めいめいが仕事の愚痴や家族への思いを、誰に宛てるでもなく洩らしている。しかし、薄情ながら、彼らと交わした会話や共に成し遂げた事など何も思い出す事が出来なかった。彼らの、よそ行きの言葉の中に、郷愁を揺さぶる物は無かった。致し方ない事だ。卒業してから何年も経ち、皆、仕事を始めている。家族を持つ者もいる。高校時代はたったの3年で、当時はそれが人生の全てだったけれど、今では単なる経歴だ。私のように、学生時代の残滓を見出すべく、人の投稿を吟味している方がおかしいのだろう。
よるべない気持ちで、スマートフォンの画面を擦っていると、眼が、ひとりの名前に吸い寄せられた。
ユメノツヅキ。
そう、確かに私の学生時代、夢野都月は居た。私と彼女は美術部だった。彼女は芸術の才能があり、謎めいていた。小柄な身体に才気をたぎらせ、腹の中でぐつぐつと煮える感情を、指から放ってキャンバスにぶつけていた。彼女はデッサンの巧者だった。どうすれば君のように線を描けるかと聞いた事がある。彼女は考えた事がないと、はにかんで、しばらくスランプに陥った。私の投げかけた質問のせいかと非常に恐縮したが、それをきっかけに彼女と会話するようになった。表現や技術の事だけでなく、文化や音楽について、内容は多岐に渡った。彼女のユーモアと含蓄に溢れる言葉は、私を唸らせ、時には劣等感に陥らせた。それでも、私は食らい付くように部室に通って、彼女の隣で筆を走らせていた。そんな私に対して、彼女が何を思っていたのかは分からない。
こんな事があった。放課後、私は教師から役目を授かり、その作業に大きく時間を取られて、完全下校時間まであと少し、それでも、少しくらいはと部室の扉を開けた。
部室には、彼女だけが居て、キャンバスを降ろしたイーゼルの前で、椅子に座り、片足を抱いていた。憂うような表情に、カーテンから漏れる柿色の夕陽が当たって、まるで彼女はひとつの完成された人物画のようだった。私が見惚れていると、彼女は私の方を向いて微笑んだ。私は動転して、一瞬、彼女に抱いてしまった想いを悟られまいと、軽薄に振る舞った。空回りする車輪のように言葉は勢いを失い、後には気まずい沈黙が残った。
よるべない気持ちで立ちすくんでいると、彼女は瞑目しながら、宛先の分からない、独り言を始めた。
君は、この世界が平らで、端から海が滝になって流れ落ちてるって、信じる?世界は三匹の象が支える亀の甲羅の上にあるって、信じるかな。信じないよね。でも、土で出来た玉があって、その表面が世界の全てだって、信じる?誰が見た事あるのかな。私も、君も、両親も、学校の先生も、誰も地球なんて見た事がないでしょ?でも、私は知ってる。この世界は、全部妄想で出来てるの。誰の妄想か知りたい?この世界を作ったのは、22歳の女性。つつがなく大学を卒業して、新生活に心が弾んでる。新しい場所、新しい人間関係。不安もあるけど、大学では少ししくじったから、新しい環境は大歓迎。今度こそは失敗しないようにって張り切ってる。人が行き交う駅の中をスーツで歩いてると、社会人の仲間入りだって少し誇らしい。ホームに着いたら電車は出た所で、一番前に並ぶ事が出来た。これなら座れるかもしれない。後ろにたくさん人が並ぶ。満員電車は初めてだから緊張するなあ。そして電車がホームに入ってくる。ゆるやかになりながら、それでも恐ろしいくらいの速さで。その時、彼女の背中を力強い手が押す。彼女は宙に浮く。両手が広がる。時間が引き延ばされたようにゆっくりになって、電車が、動いているのに止まる。感覚が鋭敏になって、全てが見える。私を押したのは大学時代に付き合っていた男。嫉妬深くて乱暴だったけど、とうとう一線を超えてしまったのね。ホームの皆が私を見て口を開けているのが分かる。数秒後には、皆叫び声を上げるのね。ごめんなさい、迷惑をかけるわね。しかしその時はいつまで経っても訪れない。鋭敏になった彼女の感覚は、あくまで主観だけれど、時間を限りなく引き伸ばしてしまった。いつまで経ってもその時が来ないので、彼女は色々な事を考え始めた。もう一度産まれ直せたら、今度はどうなるのかな。線路に突き落とされずに済むのかな。時間はいくらでもあるのだし、少し考えてみようかな。そうして、彼女の妄想の中に世界の萌芽が産まれた。この世界は、彼女が産まれた時から、その瞬間まで現実をシミュレートしているの。彼女は今何歳かな。彼女が22歳になった春に、突き落とされなければいいな。きっとそうなれば、今にも電車に轢かれそうな彼女は、この世界を最初からやり直しちゃう。
彼女はこちらを向いて、曖昧に笑った。
信じる?
その後、彼女とどんな話をして別れたのか分からない。ただ、荒唐無稽な話が、彼女の喉を通すと、真実味のある物語になって、恐ろしくて、それから私と彼女は自然と疎遠になり、卒業する時には進路の話さえしなかった。
その都月が、時を超えて再び私の前に現れた。私はしばらく悩んだが、結局彼女の名前は撫でなかった。都月は、個性的な少女だった。魅力的で恐ろしかった。彼女が今どんな風に居ても、その思い出はきっと妄想のように掻き消えてしまう。
私は立ち上がり、キッチンの換気扇の下へ。煙草に火を付けて一服をした。煙の中で思う。今にして思えば、私は彼女の何を恐れていたのだろう。笑い飛ばして話題を変えて、先生に押し付けられた作業がいかに辛かったのか、言ってやれば良かったのに、なのに、彼女の物語は呆気に取られる私の姿を含めて完成してしまい、今も私を捉え続けている。

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