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思い出の一冊『ワニがうたえば雨がふる』

小学生の頃、塾に通わされていた。私は別に塾に通いたくはなかったし、勉強もしたくなかったのだけど。ただ、その塾に図書室があったのはうれしかった。図書室にはおばさんの司書さんがいた。

私の地元はそれなりにヤンチャな地域だったし、今とは時代も違ったので、図書室は走り回ったり叫んだりしている子らも結構いた。一足制の古い校舎で、走り回ると床の板は軋むし埃は立つしで、大変だった。

小さい頃から私は自宅がキライだった。父は教育としつけに厳しく、長男だった私はずいぶんと叱られた。割り算の筆算の授業をまったく聞いていなかったときなどは算数のテストで0点をとって、徹夜で割り算の筆算を解かされたことがあった。父に正座させられ、「読書百遍義自ずから通ず」などと言われながら、「解けるようになるまで百回でも二百回でも教科書を音読しろ」と命じられ、割り算の筆算をさせられたのは、小学生の身にはそれなりに堪えた。大人になった今ならば父の意図もわからなくはないけれども、遊びたい盛りの小学生だったうえに、ただでさえ人の言うことを聞かず、注意力散漫だった私には、父の対応は苛烈に感じられたし、家は窮屈だった。逃避するように、私は本を読むのが好きになった。

そんな私にとって、塾の図書室は憩いの場であり、救いの場だった。塾の授業は授業で小さい私の小さい人生をずいぶんと窮屈にしていたが、図書室は別だった。家族関係も勉強もお腹いっぱいでゲロが出そうになっていた私にとって、本を読むことに集中する時間は至福の時間だった。放っておいてもらえて一人になれるのは幸せだった。塾も自宅がキライだった私は、塾の授業が終わったらそそくさと図書室に行き、そこで一人黙々と本を読んでいた。そこで出会った本の多くは私の人生を豊かにしてくれた。人生で一度だけ自殺しようと思ったことがあったが、それを思いとどまったのも、その頃に読んだエンデの『モモ』本を再読したのがきっかけだった。

私は気になった本を片っ端から読むようにしていた。最初は知っている作品、知っている作者の本、要するにメジャーな本を読んでいるのだけれども、次々と本を読んでいるうちに、徐々にメジャーなものは尽きていき(地方の塾の図書館の蔵書量などたかが知れている)、次第にマイナーなものを手にとるようになった。「マイナーなもの」というのもずいぶんと失礼な言い方だが、要するに課題図書になったり試験問題に出したりするのに都合がよいような学校的・教育的な本ではないというだけで、メジャーなものと比べて内容において何ら遜色のあるものではなく、むしろ生き生きとしたものが多かった。

当時は図書カードというものが一般的だったから、本の後ろのポケットを見ると、この本は何月何日に誰それが借りたということがわかった。次々と本を読んでいるうちに、私よりも前に誰も借りていない本に出合った。私はこの本の内容をずいぶんと気に入った。ひととおり読んでは返し、返してはまた借りて読み、都合何回借りたのやらわからない。しかし、3回目に借りたときのことはよく覚えている。

私が3回目に借りたその本は、相変わらず私しか借りていなかった。図書カードには私の名前だけが3回書かれていた。その本を借りるためにカウンターに行き、司書さんに声をかけた(カウンターといっても司書さんが一人座るスペースがあるだけだが)。いつものように貸出手続きをしながら、ふと私しか借りていない図書カードを見つめた司書さんから声をかけられた。

「もりもとくんはいつもいい本を借りるわね。誰も借りていない本だけど、もりもとくんが借りる本はどれもステキな本ばかりよ」

叱られることはあっても褒められることはほとんどない私にとって、この一言はかけがえのない一言になった。私は本を読むことをさらに好きになった。司書さんに褒められたものの私が選ぶ本がどういう点で「いい本」で、どういう点で「ステキな本」なのかは、まだ私にはわからなかった。わからなかったなりに自分が読むもの、読む行為に対して自覚的になった。

私にとって思い入れの深い一冊となったこの本の名前は『ワニがうたえば雨がふる』。岡田貴久子さんの作品だった。夏休みを一人で過ごす主人公の少女カナの用心棒として雨をふらすことができるワニが登場する物語。この物語のよさを大人に説明するのは難しい。しかし、多くのすぐれた児童作品がそうであるように、子どもの私にとってこの本はかけがえのないものだった。この本のなかで出てきた次の一節は、まだ子どもだった私の心にも深く刻み込まれた。

「強くなければ生きていけない。やさしくなければ生きる資格がない」

のちに、この一節がレイモンド・チャンドラー『プレイバック』の“If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.”から引用されたものであることを知った。この本は少年だった私にファンタジーの世界を与えてくれて、青年だった私にチャンドラーを教えてくれて、大人になった私に子どもの頃の感性を思い起こさせてくれた。私にとってこの本は生涯「思い出の本」であり続けるだろう。

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