エッセイ ヒエラルキーとアルツハイマー
我が家は何十年も前から、いわゆる「ヒエラルキー」が崩壊している。
ちなみに「ヒエラルキー」とは、身分などの階層制や、職務・役職などの階級制のことを言う。
よく、いろんな組織で「ピラミッド型」と呼ぶ、アレである。
その響きだけで、嫌な気分がする。
だいたいそういう独特の腐臭を放つものは、西洋が発祥であることが多い。その中でも、特に宗教。
ヒエラルキーというのは、元を正せば、カトリックやプロテスタントの聖職者の支配構造からきているといわれているのは、たぶん当たり だと思う。
その「ヒエラルキー」が、我が家には欠落しているのである。
であるから、長男が父親を、「お父様」とか「父上」などとは決して呼ばず、その時々において、
「ハルシ」「ハルシオン」「ルシー」「ルシルシ」「ルー」 etc と、呼ぶのである。
これだけだと、逆に、
「長男である私が、ヒエラルキーの上部に位置しているではないか?」
と、疑われるかもしれないが、決してそんなことはない。
我が家はあくまで、対等、水平なのである。
その証拠に、我が父、治司は、感謝もせず、悪びれもせず、のうのうと、
「わし 明日帰るから新幹線の切符代貸してくれ」
などとのたまいながら、生きているのである。
その上で、平気で長男のギャグを盗み、ここというタイミングで、満を辞して使用する。
たとえば、私が放屁すると、一呼吸おいて、タイミングをみはからい、
「屁ぇは、ええねん」
と、歌舞伎俳優を真似て振り付け入りで語り演じる。
ちなみに、この関西弁を正確に訳すと、
「今 この時点において、あなたの オナラは、私にとって、またはこの空間の空気の維持にとって、まったく必要ありません」と、なる。
「ええねん」の「ええ」は、不要、という意味で、決して、良い の、「ええ」ではない。
問題は、「ねん」。
これは「念押し」の終止語であるが、説得性と空気の共有における互いの確認を意図する、軽い疑問も含んだ非常にデリケートで高度な関西弁なのである。
話を戻す。
我が家には、ギャグだけでなく、独自の標語がたくさんある。
私は、それを、我が家のプロパガンダと名付けている。
そうなのだ。庶民や家庭は、すぐに国家を真似るのである。
その中の特に有名なものを、ひとつ紹介する。
『 赤ちゃんは、泣くのが仕事。
治司は、忘れるのが仕事』
これを聞くと、父は腕を組み、妙にうなずいて感心し、こう言う。
「なるほどな、うまいこと、言うたもんやな」
そして、有言実行。
そう言ったことを、数時間後、必ず、忘れる。
ああ素晴らしき、アルツハイマー。
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