エッセイ 歌手について
いい《歌》が書ければ死んでもいいとさえ思う。
私という人間は生を受けて50余年(※執筆当時)この世に溢れるありとあらゆるものの中で、突き詰めれば《歌》以上に好きなものが他にない。
ある友人はそれを音楽だという。
またある者は、ギターやピアノや演劇だと言い、詩や小説、はたまた文学や絵画・彫刻の人も居る。
けれども私の場合は、やはり《歌》に限るのである。
《歌》といっても、和歌や短歌は、なんとなく含まない。
《歌》は言うまでもなく、歌詞と旋律によって成り立つが、成立させるには音を奏でる演奏者と、歌詞を歌う歌手を必要とする。
私は主に作詞をするが、歌詞の出自が良い時は、最初から旋律を連れてきてくれる。
また、人に依頼する時間がない時は、止むを得ず自分でも作曲をする。
自分の力でどうにもならないのは、演奏と歌手である。ちなみに、決して私は歌わない。理由は、歌が下手だからである。少なくとも、人前で歌う水準にはない。
そんな私は、常日頃から、作品力こそが最も重要であり、いくらいい歌手が歌っても元が悪ければどうしようもないという考えを主張していた。
私の主張に対し、とある大作曲家が異を唱える。
作品の良し悪しは確かに重要であるが、歌い手の担う役割も非常に大きいのだと。
大きいという点においては私もある程度は妥協して同意するのだが、問題はその割合である。
私は歌い手の責任配分は、作品力のよくて3割程度だと思っているのに、知人の作曲家は、いや、ほぼ同じ比率だと言い張るのだ。
二人が会って話が弾むと、必ずといっていいほど、どこかの時点でこの論争が始まり、周辺は「ああまた始まったのか」と苦笑するのであるが、いつも互いに譲らず、結局は双方が双方の特異性を尊重して結論を次回に持ち越すということになる。
しかし和解の時が不意に訪れたのである。
動画サイトでたまたま、外国出身で、今は日本で活躍している、とあるシンガー・ソング・ライターが、よりによって、普段から散々私とさっきの大作曲家が声高らかにけなしていた歌を歌っているのを見つけたのである。
ところが、その歌の素晴らしさに、私はひっくり返ってしまったのだ。
そしてこの歌手の歌によってはじめて、今まで散々けなしていた作品で、作者が言いたかったであろう内容が、ようやく理解できたのである。
私はさっそく、例の大作曲家に電話をかけその件を話したが、歌い手の重要さを説いていた本人でさえ、私が曲名を告げただけで「あの歌は最低、それがいいはずがない」と決めつけた。
彼もまた私と同様に、その外国人シンガー・ソング・ライターの名を知らなかったのである。
私はまず自分の今までの間違った認識に対して素直に詫びた。
確かに歌い手によって作品価値が跳ね上がることを身を持って知ったと……。
大作曲家もその歌を聞いて大いに驚いた。
「この歌、実はいい歌だったんだ」と言うと同時に、元々歌っていた歌手……実は作曲者だったのだが……が、そもそも作品力を台無しにしていたと結論づけたのである。
「いかに歌手の力が大きいか」
長期間にわたった2人の論争はこうして円満解決したのであった。
そのように、考えを改めて、ひとたび角度を変えて冷静に見渡してみると、たしかに思い当たる節は他にも多々あり、またまた2人はその話で新たに盛り上がるのであった。
60年安保に打ちのめされて、毎日うつむきながら歩いていた若者が書いた歌詞に、才能ある作曲家が曲をつけて大ヒットした歌が《上を向いて歩こう》である。
曲がついた自分の歌詞を聞いたとき、作詞家は今までとは明らかに違う、「なんだかいける」という予感がしたという。
昭和36年の夏、作曲家は、この歌を売り出したばかりの、まだあどけなさが残った新人のロカピリー歌手に歌わせたいと思いつき、ここに世にいう、八・六・九 コンビが誕生した。
作曲・中村八大、作詞・永六輔、そして歌唱が、坂本九である。
しかし初めて坂本九の歌を聞いた永六輔が激怒した。
作詞家として、日本語を正しくきちんと発音する歌手のみを、こだわりを持って評価していたからである。
「俺は、ウエヲムイテ、アルコウヨ、と書いたはずだ。それなのにおまえは、ウエホムフヒテ、アルコホホヨ と歌っている。そんな歌い方でこの歌が売れるはずがない」
年長者であると同時に尊敬する対象でもあった中村八大が、
「まあ、いいじゃないか六ちゃん」
となだめたので、永六輔はふてくされながら引かざるをえなかったという。
ところが発売と同時にこの歌は大ヒットした。
しかしこの歌の偉大さは、ヒットが国内にとどまらなかったことである。
ヨーロッパを皮切りにして全世界で売れに売れた。しかも英訳でなく、日本語の歌詞のままだったことは、《スキヤキ》という意味不明のタイトルがつけられたこととあわせて、なんともいえない一大快挙であった。
今の音楽業界では、悲しいかな2千枚売れれば御の字。1万枚売れれば万歳という風潮にまで成り下がっているのに、《上を向いて歩こう》は、全世界約70カ国で、1,300万枚以上を売上げたというから、顎がはずれる思いである。
同業者の端くれとして、姑息に印税を計算すると、まともに受け取れば、いくら低めに見積もっても作者は贅沢な暮らしをこの世で千年は余裕で続けられるはずである。
怒鳴りつけた作詞家 永六輔が、歌手 坂本九によって膨大な恩恵を受けたことは言うまでもない。
それでも、永六輔は坂本九の歌い方を内心否定し続けていたが、後年坂本九の母親に招かれた席で、目から鱗で頭から水をかぶった思いをした。
実は坂本九は、幼少から母親に小唄や清元などを教え込まれており、あの独特の歌い回しはロカビリー崩れではなく、小唄そのものであったことに、永六輔は遅まきながらも気付かされたのである。
海外でのヒットの真の秘密はそこにあった。
坂本九の歌い方が、もしも、ただ洋楽を真似ただけの、単なるロカビリー崩れであったなら、プレスリーの二番煎じのキワモノとしか受け入れられなかったはずである。
しかし"スキヤキ"には、西洋人が今まで聞いた事もなかったような小唄の節回しが含有されており、日本人にだけわからない、えもいわれぬ、オリジナルな異国情緒を感じたからこそ、ここまで大ヒットしたのだと考えた。
そして永六輔はつぶやいた。
「そのことに自分は今まで気付かなかったが、作曲者である八大さんは最初からそれに気付いていたのだ」と……。
それとは別に、実は坂本九の際立った歌い方のひとつは、笑顔の魅力である。
本来、口をすぼめて発音するのが自然な音でさえも、彼は前歯を見せて歌うことが多かった。
そうすることによって、聴く人に彼の笑顔が強く印象づけられる。
《上を向いて歩こう》も、決して明るい歌詞ではない。
しかしその歌も、坂本九は笑顔で歌う。しかもつくり笑いではない。吸い込まれるような笑顔である。
悲しく淋しい歌は、暗く沈んだ表情よりも、笑顔の方がよりまっすぐ人の心に届くようだ。
しかしこの笑顔は簡単には真似ができないのだ。
その一点においても、坂本九が偉大な歌手であったことを裏付けるには十分であるといえる。そして何よりも、もの心ついた時から私は彼の大ファンであったのだ。
しかし多くの人から「九ちゃん」と呼ばれて愛された坂本九は、歴史的大惨事によって昭和60年8月12日、群馬県御巣鷹山で散る。満43歳の若さであった。
大島花子という今まで会ったことがない人から突然連絡があった。
私の古い知人であるショーロクラブのギタリスト笹子重治氏と、最近よくデュオを組んで歌っているという。
広島で仕事をするついでに山口に寄るので、笹子氏つながりで力を貸して欲しいということだった。
笹子重治氏が、嫌がらずに一緒にやっているミュージシャンなら、レベルの心配をする必要は微塵もない。
さて、初めてつきあうアーティストということで、先方からプロフィールを送ってもらい一読して腰が抜けた。
大島花子という人は、故 坂本九の長女であったのだ。
人生とは摩訶不思議である。どうしようもない父親と、それよりさらに悪質な母親を持って育った私という人間が、偉大な歌手と女優の間に生まれた人間と本州の西端でつながるのである。
幼い頃、こんな日が来るとは夢にも思わなかった。想像できるはずがなかった。
すべては《歌》のおかげである。そしてやっぱりこう思う。
「いい《歌》さえ書ければ、本当にいつ死んでもかまわない」と。 了
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