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エッセイ 幸福と快楽
父親が亡くなり、丸3年が経って、あらためて振り返って感じること。
ありきたりだが、なんやかんやゆうても、父親と暮らしていた時期は幸せだったということ。
さらに、父親が生きていたというだけで、幸せだったという感覚である。
当時は当時で、頭や理屈ではわかっていた。いずれは必ず、父親を失うことも、冷静に想像していた。
でも、いくら頭でわかっていても、その時の幸福感には、実感が伴わっていなかった。
それでも、いつか体験できるであろう幸福感を予想して、私は毎日、父親の食事をつくり、写真を撮り、その日の出来事を文章に書き続けたのである。
そして月日が流れ、今こうして、過去の幸福を、あとから実感として感じているのだ。
ここに実感の不思議がある。
いわゆる「過去現在」においての幸福感を麻痺させていたのは、おそらく、その他数々の現実のマイナスベクトルに違いない。
歳月が流れ、現実感が色あせて落ちてゆくと、あとには幸福感だけが残り、あぶり出しのように浮き出してくるのだと思う。
人間は、過去でも未来でもなく、現在を生きている。
簡単に言うと、継続する「今」という不思議な一瞬しか生きることができない。
それは、とらえたらすぐに逃げる「点」である。
過去は事実とは言い切れない主観的記憶や、自らがタグ付けした記憶フォルダーで脳に保存されていて、未来は単なる概念でしかない。
その「今」に、幸福感を実感させるための最大の障害が、現実感だと推測される。
犯人は、現実感なのである。もちろん、現実が悪いのではなく、そのあとに続く「感」。
現実を変えることは、たいへんな労力を要するが「感」は変更できるかもしれない。
なるべきようになる、という受け入れ方が正しいケースも多々ある。
ところが、やはりもがいてしまう。
運命に身を委ねようと、腹をくくって開き直らず、現実を変えようという思いに独占され、その結果、それらふたつの軸の狭間で彷徨うことになるケースがほとんどである。
とすれば、生きていくということすなわち、彷徨い続けることなのかもしれない。
こうしてすべては、自分自身を疑うことから始まる。
なぜ疑うか?
それは騙されないためにである。
自分は自分を巧妙に騙す癖がある。
立ちが悪いことに、騙し続け、騙され続けると、ふと気付いた時に、精神が壊れ、鬱が発症する。
もしも自分の嘘を封じ込めることができれば、おそらく凝り固まった観念は薄まるに違いない。
話をもとに戻す。
原則的に、私も、おそらくその他多くの人も、幸福感を得たいはずである。
しかし、幸福は素晴らしく、魅力的だが、幸福が尻尾をまくものが一つあり。
幸福が、トランプでいうところの「スペードのエース 」なら、それに勝るのが、「ジョーカー」。
それが、快楽である。
快楽は、ジョーカーのように怪しい風貌をしている。
不幸でないという消極的で主観的な幸福と比べて、快楽の客観性とダイナミックさは、段違いの魅力がある。
そう、書物で解いたのは、澁澤龍彦。読んでない人には是非読んでもらいたい。「快楽主義の哲学」。
彼はその本を、こう結んでいたように思う。あれっ、他の本やったかな?
かなり記憶があやしいのだが、たしか……
我々が生きる資本主義社会において、快楽主義を実践する方法は、最も好きなことを仕事にして、仕事を遊ぶことだと。
好きなことを仕事にするだけではダメ。
好きなら、それなりに上達してアドバンテージは増すけれども、仕事に追わるからだ。
だから、その先、そこで遊ぶ。
これは、ものすごく深い。
さて、我に返り、父親が死んで丸2年が経って、あらためて振り返って感じること。
ありきたりだが、なんだかんだと言っても、父親と暮らしていた時は幸せだったということ。
さらに、父親が生きていたというだけで、幸せだったという感覚である。
この世の真実のヒントは、涙よりも笑い。エンジン性能よりも、ステアリングの遊び。スペードのエースよりもジョーカーにこめられているような気がしてならない。
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