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オリンピック アホの連鎖

 このタイミングで、オリンピックネタを、ドキュメンタリータッチでお届けしましょう。
 
 知らなかった、では恥ずかしいオリンピックの歴史です。

 ミュンヘン オリンピックが開催中の1972年9月5日、早朝4時40分頃、暗闇にまぎれてあやしい8人の人影が選手村内のイスラエル選手団宿舎のフェンスを乗り越えました。

 これを目撃した警備員は、門限破りの選手が夜遊びのあと、仲間にバレないように帰ってきたのだと思いまったく気にかけませんでした。

 けれどもこの8人、実は、あ〜こわっ、パレスチナのテロリスト組織「黒い九月」のメンバーだったのです。
 彼らは覆面をかぶり自動小銃や手榴弾などで完全武装していました。

 テロリストは、真っ先に2階のイスラエル選手団居住フロアに侵入し、抵抗したユダヤ系アメリカ人選手とレスリングコーチの2名を射殺し、9名を人質にとり、宿舎にたてこもりました。

 30分ほど経過した午前5時30分頃、巡回していた警察官が、庭に投げ捨てられた1人の遺体を発見し事件が発覚しました。

 テロリストらは宿舎から犯行声明を書面で出しました。
 その内容は、イスラエルに収監されているパレスチナ人234名を午前9時までに解放せよという要求でした。もちろん要求が受け入れられない場合は、とりあえず人質2人を射殺するという非人道的な条件つきでした。

 この解放要求の対象となる囚人には、和製テロリスト、日本赤軍の岡本公三も含まれていました。私も日本人のひとりとして実に恥ずかしい。

 午前8時45分頃、ミュンヘン警察本部長は、五輪関係者2人とともに玄関先で占拠しているテロリストのリーダーと交渉を行い、現在西ドイツ政府がイスラエル当局と協議中であることを理由に、とりあえず期限を午後0時にまで延長させました。

 西ドイツは直後から犯人の要求を飲むか否かでイスラエルとの交渉を開始していましたが、イスラエルのゴルダ・メイア首相は、キッパリとこの要求を拒否し、
「イスラエル国防軍の特殊部隊を現場に派遣したい」と主張しましたが、実は西ドイツでは外国軍の国内での活動を法律で制限されていました。
 その結果、西ドイツ当局は交渉による解決の道を奪われ、武力のみの解決に追い込まれてしまったのでした。

 それでも西ドイツはイスラエル政府と尚交渉中だと、犯人にいつわりながら時間かせぎをして、午後5時頃、五輪関係者を人質の生存確認を理由に宿舎の中に潜入させることに成功しました。

 この時に五輪関係者が見た犯人グループのメンバーの人数が、たまたま 5人だけだったために、仕事ができない西ドイツ当局はそのまま犯人を5人だと断定し、5人やったら……と、あわてて突入部隊を編成したのですが、いざ突入という段階で犯人に気づかれてしまい中止されました。

 理由は、犯人がテレビやラジオの実況中継を見ていたからという、アホきわまりない盲点でした。

 その後さらに再交渉が行なわれ、犯人たちは飛行機でエジプトの首都カイロへ脱出することを要求し、当局はそれに合意せざるをえず、夜の10時ごろ、人質を連れた犯人と人質は宿舎の地下から、用意されたバスで 200m離れた草地に移動し、そこから2機のヘリコプターで空港まで行き、その後は用意された飛行機に乗り移って国外に脱出する手筈が組まれました。

 もちろん、このバスでの移動の途中、もしくはそのあと、ヘリコプターから降りたところを空港で狙撃し人質を解放するという二段構えの計画でした。

 ところが、バスで狙撃しようと思ったらタイミングがあわず不可。

 午後10時30分、テロリストと人質を乗せたヘリコプターが、狙撃隊が待ち構えるフュルステンフェルトブルック空軍基地に着陸しました。

 犯人グループのリーダーと副リーダーの2人だけが、安全確認のために用意された飛行機に入りましたが、これまた寸前のアホな手違いで機内には誰もおらず、2名のテロリストは機内に案内役すらいないことをかえって不審に思い、仲間と人質が居るヘリコプターに走って逃げ戻りました。

 その時、またまたアホな手違いがおきました。

 なんと滑走路上の狙撃手の1人が、指示を待ちきれずに発砲してしまったのです。

 タマは副リーダーに当たりましたが、無傷のリーダーがヘリコプターまでたどり着いたとたん、テロリストらと警官との銃撃戦になってしまいました。

 ところが、これまた重ねてアホなことに、狙撃手として配置されていた警官隊の装備がテロリストより粗末なものだったので、狙撃部隊はとりあえず応援部隊の到着を待つことにしました。

 当然犯人らはヘリコプターに立てこもりましたが、応援部隊がなかなか来ません。

 実は、またまたまたまたアホが重なります。

 応援部隊は、空港周辺に群がるマスコミと一般人の野次馬による交通渋滞に巻き込まれていたのでした。

 応援部隊が現着した時はすでにあとの祭りでした。

 犯人の1人が手榴弾で自爆し、人質が乗ったヘリコプターが爆発。

 結果的に、人質9名全員と警察官1名が死亡。

 犯人側は8名のうちリーダーを含む5名が死亡。残りの3名は逃走後逮捕されますが、2ヶ月もたたんうちに、ルフトハンザ航空615便ハイジャック事件で解放されてまいました。

 つまり、これ以上ないような最悪の結果になってしまったわけです。

 その後、9月6日午前10時からオリンピック・スタジアムで8万人の観衆を集めてイスラエル選手団の追悼式が行われ、午後4時50分に34時間ぶりにオリンピックは再開されました。

 数々のオリンピックにおける汚いインチキ、不正を聞くたびに、なぜか私はミュンヘンオリンピックのこの事件を思い出さずにはいられません。

 もちろん、共にスポーツ精神を重視した祭典とは別世界の、ぬぐいきれない人類の汚点、という共通点で……。

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