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エッセイ 仮面づくり

 人間はいくつもの《仮面》を使い分けて生きている。
 ラテン語で《仮面》は、ペルソナ(persona)であり、ペルソナはパーソナリティ(personality)の語源である。
 つまり人格や個性というのは、その人が持ついくつもの《仮面》のことをいうのかもしれない。

 こんな小洒落た知識が、最初から私の頭に装備されているはずがない。やたらと物知りな悪友からの受け売りである。

 私もたくさんの《仮面》を持っている。

《仮面》という表現には、嘘や偽りで塗り固められたというネガティブなイメージしか今まで持っていなかったが、この話を聞いたあと多少感じ方が変わった。私の意思とは別に、私の《仮面》が私の個性に繋がっているかもしれないと、ふと考えたからだ。
 
 数年前(※執筆当時)に84歳で亡くなったパントマイムの神様《マルセル・マルソー》の有名なパフォーマンスに、《仮面づくり》という演目がある。英語では、"The Maskmaker "である。

 パントマイムというのは、自らの肉体だけを使い、実際には存在しないものをあたかも本当にあるかのように見せる芸である。
 ガラスに手の平をあてる仕草などが一般によく知られている。

 私にとっては15年前の京都公演が、生のマルソーを見た最後となった。

 《仮面づくり》は、まずノミを使ってコツコツと仮面を掘るところから始まる。
 くどいようだが実際にはノミなど持っていない。ノミも仮面もすべての小道具は観る者のイメージにのみ存在する。しかも、まことにありありと存在するから不思議なのだ。

 マルソーが出来上がった仮面の一つを顔にあてると、顔は笑顔になる。
 笑顔といっても道化の顔である。
 はずせば元の普通の顔に戻る。

 次にもう一つの仮面をあてると今度は口がへの字にゆがんだ偏屈者の顔になる。

 次はそれぞれの仮面を交互にかぶる。  
 ここでひとつの見せ場を迎える。その速度がどんどん増すのだ。

《笑顔》と《普通》と《怒り》の三つが、手の動きに寸分の狂いもなく連動する。

 観客は完全に魅了され、たまらず拍手がわき起こる。

 そうして調子にのっているうちに、なぜか突然笑顔の仮面がはずれなくなってしまうのだ。

 仮面をあごの方から無理矢理引きはがそうとするが、どうしてもはずれない。

 首から下の肉体で苦しみもがきながら、顔は笑ったままなのだ。

 心身の矛盾を乗り越えた見事な肉体表現は、とてもじゃないが人間業とは思えない。

 最後は笑顔の仮面のまま、絶望にうちひしがれて座り込んだところで照明が落ちる。

 はずれなくなった仮面が偏屈ではなく、道化の仮面であることが、より哀れで深い。
 
 実は私もその両方の仮面をきっちり持っている。ほかにも、ねたみや悲しみ、ポーカーフェイスというものまで常備している。

 もちろん私は、そのことを自覚していた。けれどもそれを直視するきっかけが愚かにも今まで一度もなかったのだ。

 生きている限りは、これからもたくさんの《仮面》を持ち続けなければならない。
 それらをいかに上手に管理し、綺麗に使いこなせるかということが今後の人生における課題である。

 ただ願わくば、末期の《仮面》だけは、笑顔の《仮面》でありたい。
 
 悪友は最後にこんなことも言った。

「バカなヤツは、いくつもある仮面のうちの一枚を、自分そのものだと勘違いする。たとえば社長というペルソナがあると、家でもどこでもどのシーンでも、自分が一番偉いと勘違いするんだよ」

「そうだそうだ」と笑って相槌を打ちながら、実はこれが一番、肝に堪えた。 了
 

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