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基本的温厚の忍耐

 私は……地元では特に有名な話だが……基本的にものすごく温厚な人間である。
 たとえ、今流行りの煽り運転の被害にあっても、決して声を荒げず、終始穏やかに対応し、右の頬を殴られれば、喜んで左の頬を差し出し……入院は長ければ長いほどよいのだが、生命やシャレにならない後遺症にだけは留意しつつ、それが車内ではなく野外であれば力学に逆らうことなく素直に転倒し、腰を強打するようにしている。
 相手に傷害罪が成立しても、全治1週間ではどうしても弱いので、なんとか2週間が欲しい。診断書にはぜひ2週間と書いて欲しい。
 そうすれば、起訴猶予の可能性がかなり減るはずだ。
 それでも、そこで相手が無理矢理にでも起訴猶予を勝ちとるためには、最低でも私との示談が成立している必要があるので、その時に初めて私は羊のぬいぐるみを脱いで、本来の正直な姿で、特に低い声で、落ち着いて交渉するわけである。
 私のような人間は、この世に数名は必ず存在する。だから間違えても……相手がいくら弱そうに見えても、煽り運転をして調子乗って殴りつけてはいけないのである。
 なんだかんだと言っても日本は法治国家なのだから……。

 ところが、そんな極めて民法や刑法に合理的に対処する心構えが24時間備わっているはずの私であるが、昨日、極端な殺意をもよおしたのである。
 我を忘れ、前後の見境いなしに、相手を殺したくなってしまった。

 育ちの悪い関西弁まるだしで、
「このガキゃあ! なめなめなめなめ…なめとんのんか? 殺すぞ! オンどれ、メンどれ!」

 それでも私は、必死に興奮状態の極限にある自分をおさえつけたのである。
 もしかすればこの我慢が、芥川の「蜘蛛の糸」のように、お釈迦様に評価してもらえるかもしれないというスケベ心があったからだ。
 ガマン、ガマン、ガマン、ガマン、ガマン・エブリバディ!。

 なんと、愛用のシェーバーの上に、ナメクジが乗っていたのである。

 

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