エッセイ 絶妙のタイミング
身のまわりのものがどんどん進化してゆく。
ほんの少し目を離している隙に、とんでもなく加速したことに気付かされた時、焦りや不可思議な嫉妬と共に、そら恐ろしささえ感じることがある。
たとえば、人類を月に立たそうという夢の実現のために、文字通り天文学的数値計算が必要になったNASAが使ったという大型コンピュータは、当時小さなビルほどの大きさがあったが、今では手のひらにのると言う。
この激変する文明は、まさしく革命と呼ぶにふさわしい。
つまり、私のまわりのあちらこちらで、しょっちゅういろんな文明的革命が起こっていることになる。
もちろん自分が知らないことも気付かぬこともある。
だから余計に今の世の中はそら恐ろしいのだ。
一瞬でもぼんやりしていると、たちまち電車に乗り遅れてしまうような錯覚に陥ってしまう。
乗り遅れても別段たいしたことではないと思いたいのだが、五体がなかなか納得しない。
私のような戦後の世代は、生まれた時からDNAのどこかが加速し続けるようにプログラムされているに違いない。
そうは言いながらも、不思議に変わらないものもある。
たとえば自動車のワイパーなどは、ほんとうにどうにかならないものかと、雨のたびに憂鬱にさせられる。
国産のほとんどの車は二本のワイパーが、半円、つまり分度器状に、ほぼ同じタイミングでシュッシュッと往復を繰り返す。
ゴムが古くなってくると変な音が鳴ったり、途中でクックと引っかかったりする。
日本人の感覚と少し異なって面白いのは、古いベンツだったか、左右のワイパーが同時に別の方向に動き、パチンコのチューリップのように開いたり閉じたりするものがあった。
また、今はあまり見かけなくなったが、トラックのように大きなフロントガラスだと、ワイパーが三本ついていたり、また下からではなく上から付いていたり、円運動だけでなく、少し平行にも動くように工夫されているものもあった。
これらはそれぞれ個性的で微笑ましく、素朴な愛着をおぼえた。
しかし今も昔も、ワイパーの基本的な構造は変わらぬままである。
水滴が付着しない特殊ガラスとか、ガラスの淵から出る強力な風で雨水を吹き飛ばすとか、瞬時に水を蒸発させる熱線ガラスとか、そんな画期的な発明があってもよさそうなものだが、不思議にそれらがいっこうに出てこないので、どこか文明というやつが間抜けで滑稽に思えてくる。
車に関すれば、カーナビゲーションというのが近年一般化した。
略してカーナビという。
実は先進技術を使った商品ではよくありがちな初期のとんでもない問題点が、カーナビにも多かったのだ。
なぜ知っているのかというと、私は一時それを売る仕事をしていた。
私が扱ったのは、400万円を越す国産高級車で、搭載されたカーナビは衛星からの情報ではなく、自車に積載したハイテク装置によって現在地を測定するというのが売りだった。
その技術や部品はそのまま誘導ミサイルに転用できるので、共産圏への輸出が違法とされ、事故で廃車する時も、その後の処理が要注意だとされた。
そんな仰々しい先端技術だが、所詮は自動車メーカーの技術屋の無謀な冒険であった。
利発な文系が一人でもその場に居合わせれば、企画の段階で止まっていたに違いない。
少なくとも「大丈夫か?」という素朴だが核心を突いた疑問が出たに違いない。
とにかくこのカーナビを搭載した高級乗用車は時々、国道2号線を大阪から神戸に走行しながら、画面上では鳴門海峡を抜けて紀伊半島に向け海を渡ったのだった。
だからきっと有事になっても、我が国の誘導ミサイルは目標に命中しないし、ましてや音速を越えて向ってくる弾道ミサイルなど、撃ち落とせるわけがないと私は確信している。
これこそ私が平和主義者である動かぬ根拠である。
そのあやしいカーナビ付きの高級車を買ったお客さんが、笑いながら私に話してくれた。
「ナビの狂いもまたおもしろく、これがあるおかげで、渋滞しても子供たちが退屈しないので文句を言われなくて済むんですよ……」
心が銀河系のように広い菩薩のようなお客さんだったが、こんな人は二人と居ない。
カーナビの精度の進化は、その後米国が打ち上げた人工衛星の数の増加と共に飛躍的に加速したといえる。
どこかのカーナビメーカーが「道は星に聞け」というコピーを使った。正直、その表現のうまさに舌を巻いた。
さて、進化したといえども、実際のカーナビには、まだまだの部分がたくさんある。
こやつが時々嘘をつくのだ。
このあたり人間的で実に微笑ましい。
機械を信じて指示通りに走っていると、とんでもないことになることがある。
地図を見て走れば五分もかからない駅前に、ぐるりと線路を大幅に迂回して、30分も余計に要したりするのだ。
だいたいカーナビは、線路に弱い傾向があるようだ。
また「あと三さ30メートルで左折です」という指示の、30メートルが、実は10メートルであったり、50メートルであったり、それぞれの機種で多大なズレがある。
カーナビの癖をいちいち把握して、頭の中で誤差を修正し、常に先と、時には裏をよみ、推理しながら運転しなければならない。
これにはたいへんな知的労力を要する。
裏をよみだすとその裏の裏まで気になりだし、ついにはキツネとタヌキの騙し合いが泥沼化する。
そこでふと、本当にカーナビは便利なのかと疑いたくなるのだ。
重要なのはおそらくつき合い方なのだ。
機械と人間の距離、間合いである。
その最適の距離を知るまで、かなりの時間を要する。相手が機械でも人間でも、実はまるで同じだったのだ。
初めて落ち合う場所に遅れた相手が、
「今日に限って珍しくナビゲーションを信じてみたら、やっぱり迷ってしまった」という話を、つい最近も耳にした。
まだまだ所詮はコンピュータ、人間さまには及ばない。という意識があり、道具としての物足りなさを不満に感じつつも、別のところで胸をなでおろす場面でもあるのだ。
ところで、数年前に買ったカーナビは実に愉快だった。
案内の音声モードが選択できるのである。
通常の合成音(女性)の他に、顔とスタイルがいいだけで知能指数が低いのがすぐにばれるメーカーのコマーシャルガールの声と、関西弁、津軽弁の三つがある。
関西弁は吉本興業の聞いたことのない若手男性芸人が、関西人の私が聞いて気分が悪くなるようなおちゃらけ口調でしゃべる。
「この先、右方向やねん、そこそこ自信あんねん」という具合である。
しばらく我慢をしていたが、ついに腹が立って、見切ってしまった。
見切るということは、決して二度と聞かないということである。
そもそも関西弁を意識してしゃべる関西人ほどいやらしいものはない。
これを我々音楽の創作に関わるものは「上田正樹の法則」とよび、忌み嫌う。
さて、注目の津軽弁。取説の能書きによると、しゃべっているのは青森放送のアナウンサーであるらしい。
年配の女性が、あがったりさがったりの、独特のイントネーションで道を告げる。スタートするなり第一声、
「安全運転してげろ」
まずここで受けてしまう。
「ああ〜と、さんびゃくメートルでぇ、ひぃだり方向おだぁ」
同乗者と笑いながら話す。
「青森では、ほんまにこんなしゃべり方をするのかねえ」
「でも、妙に暖かい感じがするよな、おばちゃんやからかなぁ」
そんなあいだも、津軽弁の道案内が続く。
「もうちょこっとで、高速道路の入口だぁ、そのあと、ず〜っと道なりだぁ」
ひととおり新しいナビゲーションを散々小馬鹿にしたあと、車が高速道路に入った。そして本線車道に合流する。
「やっぱ、こういう特殊な趣向は、最初はもの珍しいけど、すぐに飽きてしまい、結局は最初の合成音声しか聞かないようになるんやな」
「そういうことやな」
「色物はしょせん色物、一見平凡に思えるものこそが、いつまでも飽きがこずに長くつき合えるんよね、白いご飯のように」
まるでそれを聞いていたかのように、絶妙のタイミングでナビゲーションの津軽弁がまたしゃべった。
「しばらくぅ静かにしてるね」。
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