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私が堕ちるまで 〜小学生時代〈中編〉〜

本記事は〈前編〉の続きです。
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↓前回からの続き〈中編〉↓


そんな中ではありましたが、
バブルの頃(といっても終わった頃?)はまあまあ稼げていたこともあって、
(といっても一般的に見たら少ないと思われるが)

たまには焼肉に行ったりもしていましたが、

それは世の中がそういう時代だったというのもあると思います。

そんなことするなら少しでも借金返すべきだろうと今なら思いますが、
そんな人間は大抵その日暮らし思考なのでまあ無理というものです。

そんな普通じゃない状態の人間に育てられると、
人に認められるような立派な人間に育つことはなかなか確率的にも難儀であるように感じます。


少なくとも、人から認められるような立派な子供として存在することは確率上まぁなかなかに無理難題ではないでしょうか。
(モデルのようによほど顔が整っていれば少しは誤魔化しも効いてさまになったりはするのかな、、、)

子供が立派に育つ上で大切なことは、

経済状態もさることながら、


最も重要なのは親の「総合的な」教養レベルだと思うのですが、

まあうちは皆無というかとても残念だったので、
(親父はバリバリの中卒=底辺高校中退)

なんというか、
エスタブリッシュメント?といいますか、
洗練されてる感のあるクラスメイトと比較すると、

まあ自分は全然違ったなーと今思えばとてもそんな感じです。
(そもそも地域柄、そんな洗練された人は多くはなく、いてもすぐに引っ越していきましたが)


ただし、当時の小学生といえば、とりあえず足が速かったりスポーツができればしっかり立派に存在することができていましたし、


画一的教育の中では、大人でいうところの「年収」のような、
目に見えて大きな差が出る「幸福度のモノサシ」みたいなものがあまりなく、


また、

大人達から見れば、

親の職業、学歴、経済状態、子供自体のポテンシャルなどから、

その子供の将来はおぼろげながらもある程度明確に見えてしまうものですが、


子供同士ではそんなことはまったく意識しませんので、

無邪気に過ごしているというのが普通でした。

事実、私が最後1番仲が良かった友人Mの父親は、
日本最高難度のT大の医学部を卒業している医者でした。
(なんで公立小にいたのか。当時はそんなもんだったのか、、、。彼は中学も一緒でいずれまた登場するかも)

一方で私の親父は中卒の現場労働者、
短気で教養のない借金まみれのパチスロ狂。

どう間違っても、
地球がひっくり返っても、
アマゾン奥地で生きたティラノサウルスが発見されたとしても、

この2人の男は絶対に交わらないわけですが、

ことその息子同士となると、

子供なのでそこを平気で飛び越えていきます。

放課後お互いが別れるいつもの交差点で、
すぐにバイバイせずに1時間も2時間も話をして、
談義を続け、
独自の世界を発展させながら、
一生分笑ったんじゃないかと思うほどに笑い転げて、
まさにそこには上も下もないただ幸福で平和な瞬間が存在していた、
そんな「エラー」を起こしているという子供独特の世界、関係性がそこにはありました。

大人の世界では、こんな2人は決して交わらない。

妬み、嫉妬、劣等感、羞恥心。
一方で、さげすみ、見下し、優越感、軽蔑、同情。

磁石の同じ極同士のように互いに避け合うのが通常です。


余談ですが、
冬に母親に買ってもらったアウターを着て学校に行ったら、
小4で転入初日から覇権を握ったやたら声のでかい横浜出身のデリカシーのカケラもないいじめっ子Kから、

その上着しまむらで2,000円で売ってたの見たぜぇとみんなの前でバカにされつつ、
1万円のプーマのコートを自慢されたことを覚えています。

実家の構造の一部が少し変わっていたことをバカにされたりもしました。

しかしその覇権は2年で終わり、小6の時についに嫌われて、不幸の手紙なるものを誰かに机に入れられて、読んで泣いたという話を聞き、
(私はすでにクラスが違った)

悪は最後は没落するものだと思いました、、

思いましたが、、、、

人は10代の頃に手に入らなかったものに一生固執するなんて話を聞いたことがありますが、

同じように、
この頃に傷付けられたことは、一生忘れないくらい、
今も思い出しては腹が立ちます。

どんな教育を受けて育ったのか。

私もたいがいだが、こういうやつもどないやねん。
同情すべき対象ではありそうだ。
(K、お前だよ。万が一これ読んだらどうにかして連絡してきなさい。)


かなり脱線しましたが、

さらに小学生時代を思い出す中で悲しかったことの一つとして、


ほとんど返ってこないのに、
大切に残していたお年玉を親に貸し続けていたことがあります。


親父は釣りが趣味で、たまに海釣りに出掛けていました。

ですが、海釣りにも船代や高速代などけっこうなお金がかかります。

その釣り代を、お金を管理していた母親に要求して、

お金がないとなると

「なんで俺が働いてるのに金がないんだ」

とブチ切れるような人間でしたので、

(は?てめーの借金のせいだろ?と今は思いますが、当時は分かりませんでした。)

母親は夜な夜な、私ども子供の部屋に来て、

「絶対返すからお金貸してくれない?絶対返すから。○○日になったら返せるから。」

と申し訳なさそうに言ってくることが度々ありました。

普段お小遣いなんてもらえないものですから、

祖母の田舎(?)に行った時にもらったお年玉は1年を通してとても貴重な財源だったため、

とても大切に引き出しにしまっており、

ここぞという時の頼みの綱でありました。

特に私は兄弟の中でも貯蓄体質でほとんど使わずにとってあったのですが、

親もそれを知っているので、悪意はなくても、
決まって私を頼ってきました。

子供なので断ることもできずに、
返すという言葉を表面上は信じていますが、
心のどこかでは、返ってこないということは途中から分かっていました。

どこかのタイミングで「返してほしい」なんて言うことも当然できず、
そのまま、
今も、
迷宮入りしています。

しかし2回くらいは少額が返ってきたことを考えると、
母親的には、返してあげたいという気持ちはあったと思うのですが、
とても子供への返済に回せる状況ではないことは今考えれば容易に想像がつきます。

とても子供への返済なんかには回せない。
その代わり、好きなおかずを作ってあげようとか、何かしらの形で気持ちだけでも返そうと思っていたかもしれません。

ですが、子供ながらに、

さっさと使っちまった兄や弟はこういう目に遭わないのに、しっかりとっておいた自分ばかりがなぜこんな想いをしなければならないのか、、、
という悔しい気持ちと、

親父にぎゃーぎゃー言われて追い詰められる母親を助けてやりたいし仕方がない、
と思う気持ちが、

交錯していました。

お年玉袋から5千円とかを出して渡すのはなんとも言えない虚しいような諦めのようなそんな気持ちでした。

母親的にもかなりキツかったとは思いますが、
脳みそや経済観念はとうの昔にぶっ壊れていて罪悪感はありつつもほとんど何も感じていなかったかもしれません。

今の私のように、、、。

〜後編に続く〜

※ここまでお読みいただきましてありがとうございます。感想やなんでも、引用ツイートでいただけましたら幸いです。


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