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学級指導の「静」について

こんにちは、小学校教諭のわいぬです。
主にX(旧Twitter)で日々の学びや気づきを発信をしています。
今回は学級の指導においての「静」について考えてみました。

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なぜ教室において「静」が求められるか。

 「〇組は静かでいいですね。それに比べてうちのクラスは・・・」このような会話を職員室で聞くこともしばしばあります。静かにできる学級は落ち着いていると職員間で評価されることもあります。

 また、教師の話を聞くため、集中して課題に取り組むためという側面もあります。

なぜ「静」が必要なのか

 学校において「静」を求められる理由としては「相手意識」と「自分との対話」だと考えています。

相手意識

教師が指示を出します。
読者の皆さんも子どもたちに指示が通りにくいと感じた経験が今までに一度はあるのではないでしょうか。

この指示を聞くためには「静か」に話を聞かないといけません。
教師の指示を的確に聞くためです。
そして周りにいる友達も指示が聞こえなくなってしまいます。

また、「一人で集中して課題に取り組むため」こちらも同じ空間にいる友だちが課題に対して思考を深めていきます。

 つまり、自分以外の誰かのためにも「静か」を作ることが求められます。
 学ぶため、思考を深める友だちのためです。

自分との対話

ノートに考えを書くとき、先生の話を聞いて自分の経験と比較しながら考えるときに自分の考えと比較しながら聞く、いわゆる「自分との対話」がおきます。

ききながら思考を深めていく場面って大人でもありませんか。

このとき声に出てしまうことで誰かの思考の流れを止めてしまう事があります。反対に誰かの声で思考が止まってしまうこともあります。

自分なりに考えていたことが、誰かの声で急に不安になると言うことをみなさんも経験した事があるのではないでしょうか。

 このように「静」を作ることは相手と自分のためでもあるのです。

静が強制され続けると

 最初に「静かな学級は落ち着いている」と言うことを書きました。みなさんの学級や周りの学級はどうですか。

 「静か」を強制しすぎるのも危ない側面があります。

 学校では「静か」にすることを目的としてしまいます。
 静かな事が良いとする文化がどこかにあるように感じます。

 身の危険がある場合など余程のことがない限り、大きな声で指導をすることを良いとは私は考えません。

静かにするために大きな声で叱ったことも過去にはありましたが、今では間違っていたと反省しています。

 本来子どもたちは無邪気なものです。理科の授業で実験をすれば目を輝かせて喜びます。難しい問題が解けたら嬉しさを溢れ出させます。

 それなのに子どもたちをコントロールしようと「静か」にできないことに対して細かく口うるさく指導する実情があります。

 昨今、新しい学級崩壊として無力感が取り上げられています。学習や行事、何をするにも無気力になる学級の状態です。

 これも「静かにしなければいけない」「静かでないといけない」と言うべき論に縛られています。

「静か」を教え、「静か」を作る

 静かを強制しないために学級開きの際に「静かとは何か」を指導します。年度初めにはノートに「1年間で成長したいこと」を書くようにしています。その際、教室には鉛筆の音しか聞こえません。「ちょっと手を止めてください。」と声をかけます。隣の教室の声や運動場で体育の授業をする声が聞こえてきます。

「みなさん、静かとはこのように遠くの音が聞こえてくることを言います。」

子どもたちは初めて聞いたような顔をします。

今まで、静かにしなさいと指導をされて来ていても「静か」がどのような状況なのかを知らないのです。

前記のことにもつながりますが、さらに続けて語ります。

「静かに取り組むことで自分自身と向き合うこともできます。先生の話を聞く時にも聞きながら自分の考えも聞けるようになります。自分と対話する人はかしこくかっこよくなれますよ。」

 私は声の物差しのように静かレベルを決めています。

レベル1 班の人の声だけ聞こえる

レベル2 隣の人の声だけ聞こえる

レベル3 物音しか聞こえない

 静かな状態について学級で年度はじめに共通認識を持つことで「静かを作る」と言う指導を行うことができます。

「静」を価値づける

 「静かを作る」指導をおこなった後にはその行動や価値をほめていきます。

 授業中課題に取り組んでいるとき、廊下に並んだ時に「静か」を作ろうとする子どもたちはいます。

 「一言も漏らさずに集中してノートに思いを書く〇〇さんですね。一人で取り組む。一人が美しいですね。」

 「〇〇さんは、みんなが集中できるように静かを作ってくれているね。相手意識を持っているよね。」

 このような言葉を子どもたちにかけていきます。さらにこの価値を子どもたちにも広げていきます。

「〇〇さんの一人で取り組む姿を見て私はかっこいいと思ったのですがどうですか。」

「こんな風に静かを楽しんで集中できる人がいる学級って素晴らしいと思いませんか。」

子どもたちにその価値を認め、広げていくことで学級として「静」の価値を広げていきます。

動のための静、静のための動

授業でずっと「静か」に取り組むことは子どもたちにとって難しいです。学級には様々凹凸を持った子どもたちが在籍しています。45分座りっぱなしではいられないのです。我々教師でも45分間講義をずっと聞くことで辛い経験をした人もいるのではないでしょうか。

 そのため子どもたちを授業では動きも取り入れます。

「算数公式を3回言ってから座りましょう。」

「音読をします。列で立ちましょう。」

「ノートに書いた自分の考えを隣の人に伝えにいきましょう。」

子どもたちに動いてもいい場面を認めます。

 しかし、「動く」を認める分「静か」の時間も確保します。

 個で課題について考えをノートに書くとき、授業のふりかえりを書くときなどです。

 このメリハリを持つことで「静か」も「動き」もグッと引き立ちます。

個と集団

協働的な学び、主体的で対話的で深い学びと言われる現在、子どもたちが集団で学ぶ場面が多く設定されています。「活動あって学びなし」と言う言葉もあります。

 子どもたちは話し合い活動的だったけれど賑やかだけだったと言う時間が起きてしまうこともあります。

学びを深めるためにも「静か」は必要不可欠なのです。

 子どもたち一人ひとりが学習者として活動の目的やそのための手段をイメージできていないのです。

 この際、教師の指示の力が求められるのです。指示の出し方や内容についてはここでは書ききれませんが少なくとも指示を聞く「静か」を作れないと活動自体も難しくなってしまうのです。

 このように「静か」を意図的に作ることで子どもたちの学びが深まります。さらに相手のことを考える気持ちが深まっていきます。

 みなさんも「静か」についての指導をしてみてはいかがでしょうか。


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