読んだ本100冊思い出せるかな~そういえば読書の秋だった~ 大学院以降編 その2
https://note.com/wagashidana/n/n100bfa963444 の続き。
こちらの4ページ目くらいからになります。
初っ端からdisで入りますが前を25で区切ったらこうなっちゃったんです。
ロシア総主教キリル『自由と平和 調和を求めて』
貰ったので読んでみました。今のロシア正教会で一番偉い人なのに現状認識が全然出来てなくて率直にどうしようかと思ってしまいました。というか、はっきり言うと現実見えてないです。見るべき物が本当に無かった…
政治的思想的に極右なのは別にどうでもいいんですが。問題はその全部が、何処かで、もっと言ってしまえば西方教会で五十年以上前に誰かが書いたり説教したりした事のカーボンコピーにしかなってない事。俗界どころか己の信仰にすら向き合ってない単純な劣化コピーでしかないって、いくら何でもさぁ…
思想とか篤信とかで総主教になった訳では無いだろうね。ベネディクト16世みたいな、考え倒した人間の深みとかは全く感じられなかった。
というのが開戦前の感想でした。蓋を開けたらもっとひどかったでやんの。
荒井献『トマスによる福音』
…の、抜粋とグノーシスの解説。私の読解力が足りなくて何処が違うのかははっきり書けないんですが、そうは言ってもイエスが「知恵」を押してくる辺り現在のキリスト教とはかなりズレてるのは分かります。
もっと言えばイエス・キリストとも。彼は人の罪を許そうとした者であり、秘められた智慧を持ってきた者ではなかったので。悔い改め、からの回心を智慧と呼ぶ事もありますがグノーシスは間違いなくこの文脈ではないです。
脳のクロックが多い人間、一般には「頭のいい人間」と呼ばれますが。私も彼ら彼女らも、頭の良し悪しがそのまま人間の良し悪しだと考えてしまう、くっだらない悪癖があります。しかしイエス・キリストは聖書を読める者、文章を読めるだけの力はある強い者の為に遣わされたのか? と問えばそんな馬鹿な話がある訳もなく。
グノーシスに限らずキリスト教、全ての宗教の神学を読み込む時に。これは常に考えなければならない事です。例えば教会を作っていた人々の殆どは、字も聖書も読めなかった。後世に伝わったのはギリシャ語やラテン語の著作だから勘違いしそうになりますが。
マルティン・ルター『マリアの讃歌』
神の母マリアは自身が取るに足らぬ者である事を誰よりも深く自覚していた上で神の御業に身を委ねた、故に最も讃えられるべき存在だと論じた著作。マリア崇敬は否定していたんですがそれはそれとして彼女の信仰に惹かれていた模様。
ルター派がそうであるように、ルターも結構カトリックの残滓があります。最初からカトリックを分割するつもりは無かったと言われますが、こうして実際に著作を読んでみると「だろうな」って感想になりますね。
一方でカトリックや正教会がどんどんマリアの話に背びれ尾びれをつける(後付の聖母被昇天とかが典型)のとは対象的に、彼女がただの人間だった事を強調する意図もあったかもしれません。
ルターの著作は50ページない位の短さが特徴です。おそらく一番読みやすい神学書なので興味があったら読んでみてもいいかも。
ロレンツォ・ヴァッラ『快楽について』
キリスト教は快楽を否定してきたけれど、言うて信仰によってもたらされるものは快いじゃないか。 という事でキリスト教からエピクロス派を称揚してます。ルネッサンスらしい著作ですが後世にはあんまり広がらなかった。
あくまで信仰には快さがある、位のスタンスです。エピクロス主義では全然ない。結局キリスト教は今に至るまで苦行を否定しておらず、どうにも信仰と苦しみがセットになりがちですが(普通の人が生きている間は復活の確証なんて出来ないから、疑いからの苦しみはどうしてもついて回りますが)、そればかりでもないよね、というお話。
哲学者や神学者になる人なんてのはだいたい辛気臭いから、このヴァッラのような発想はそもそも流行らないだろうなぁとも思います。でも他の人間が君達みたいに全員後向きって考えるのは止めた方がいいかなとも思います。
老子
無為自然の本。「大道」を往けば全てが上手くいくという論ですが、これが独特で、知恵、有為、執着、善悪、判断とかが否定され吝嗇(おそらく足るを知る位の意味)が尊ばれています。仏教とも違ってこれで国とかも上手く回ると言ってたり。おそらく喜捨や慈善活動とかは老子では否定されます。
「大道」には苦しみが存在しない、と老子が考えているのだとして。
じゃあ実際問題として目の前で誰かが苦しんでいたらどうするんだ、という問いは確か何処にも書かれていません。当然答えもしていません。現代では社会制度もだいぶ進歩しより多くの人々を支えられるようになりましたが、それは無数の人々による努力や苦労、つまり知恵、有為、執着、善悪、判断が支えている訳であって。
二千年以上前の人だからなぁ。科学技術がそうであるように社会制度も蓄積で進歩してきたのだから、昔の人には具体論は分からなくても無理はない。空論である事にも変わりはないんですが。
マルクス・アウレリウス・アントニヌス『自省録』
ローマ皇帝でありそれ故に一番有名なストア派になった人の自省録。節制、快楽蔑視、義務遂行などを重んじる典型的なストア主義者なんですが、統治とは切り離したようだし子供の教育にも役に立たなかった模様。だって自分で育てた…育ててはいないか、ともかく息子があのコンモドゥスだし。
世界史でも屈指の政治家であった筈なのですが、その経験は『自省録』には一切反映されていません。政治においてこれをやったら上手く行ったという実例は幾らでも出せるはずなんですが一切出てこない。まずここにびっくりしました。哲学と政治は完全に別だと思っていたのだろうか。
彼の治世が極端に節制を徹底していたものだったら今みたいな扱いはされてないだろうからなぁ、というのが一つ。『自省録』とは明らかに反しているコンモドゥスを後継者にしたのがもう一つ。
何を思って統治とは全然関係のない『自省録』を書いていたのだろう。
そこそこ以上には統治は上手く行っていたけれど虚しかったのだろうか。
和辻哲郎『イタリア古寺巡礼』
イタリアで色々巡ってきたので本人が『古寺巡礼』をパロディしてみたよ。元に比べると大分肩の力が抜けていて読んでて楽しいです。教会だけでなく絵画や彫刻にも言及していたり。
『古寺巡礼』だと当地の文化とか風俗とかも踏まえて寺を論じていますが、この『イタリア古寺巡礼』では純粋に建築物として教会を描写しています。そりゃ違う国の寺院もとい教会で、多分イタリア語も話せなかったんだろうから現地の人に話を聞いたりも出来なかったでしょうしね。こういう風に、分からない事はちゃんと「分からない」を通せるのが流石だと思いました。これ出来ない人かなりいますからね! インテリ気取りだと余計にね!
柳田國男『遠野物語』
色々な物語があったんだなぁ、位の感想だったのですが、多分実際に遠野に行って読んでみると全然印象が変わってくるんだろうなぁとも思えました。文章だけでも現地の匂いがします。青空文庫で読めるよ!
神話とか民話とかであんまり反応できないのは単に私の感性が死んでるだけです。読む人が読んだら絶対もっと面白いはず。なんでこういう物語が成立したのかは、現地に、かつ当時に行かないと分からないので、今となってはもうどうにも把握のしようがないのが辛い所です。でも一度行ってみたいな遠野。
スティーブン・ランシマン『十字軍の歴史』
ある方に紹介して頂けたので図書館で借りてきました。すごく上手いまとめで十字軍について知りたいならまずコレ、と言える一冊です。ビザンツ帝国と正教会はシズマ後でもローマ教会に意外と親近感持ってたのね。
関心が正教会なものだからそこが記憶に残ったんです。同じローマの教会が助けに来てくれたという扱いだったのだそうで。シズマの後になるので互いに異端と蔑まれていたんだろうかと思ってたらそうでもなかった。
なおこの後に第4回十字軍。ローマ教皇も東西教会が合一したってんで祝福もしたんだとか。ただこれは単純に欲望で全てを踏みにじっただけな気も。つまり異端とか正当とかを問う以前のもっと論外な話。
ラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』
本当に事実を簡潔に報告しているだけ、なのですがその事実が強烈&記述が上手くて一級品のルポになってます。この報告で教皇庁が動かざるを得なくなっただけの事はあります。
ひどい、ただその一言です。フン族とかヴァンダル族より野蛮なんじゃないかな。奪う、犯す、殺す! までは色々な蛮族がやってるんですがレイシズム丸出しという点においてもっとひどい。差別の本場は虐殺も一味違うぜ!
言われてみるとラス・カサスの意見も結構入ってます。福音は平和においてのみ広まる(布教そのものには疑問を感じていない)とか、そもそも地上の富は天に持っていけないんだから奪っても無意味であるとか。
ちなみにこの報告はスペイン批判には使われたんですがその精神は全く理解されず、当の欧州では野蛮人なんて知った事かという話にしかならなかったそうで。救われねぇ…
エルネスト・ルナン『イエス伝』
史実のイエスは奇跡なんて起こしていない、それは歴史書にはっきり書かれている!な、なんだってー?!という体裁をとっているのですが書いてる事は恣意的でいい加減です。ついでにユダヤ教やイスラム教もdisられてます。とはいえ史的イエス研究の起点でもあるとか。
本来の意味での「科学」では全く無いです。実験と理論が食い違ったら理論を修正するのが「科学」であって、この本はイエス・キリストの奇跡を否定するという論建てに都合のいい史料を選んで拾っているだけなので。
しかし、イエスの伝説を鵜呑みにするのではなく彼を史料から明らかにする&科学に反する奇跡や超自然現象を全部否定するという発想を、実際に形にしたのはこの本が初めてだったとか。一歩ではあったんだろうね。
ちなみにこのルナンは科学の徒を気取っていたんですがガチガチの人種主義&アーリア主義だったんだそうで。科学とは一体と思うかもしれませんが、口では科学と言い張ってるだけのただの権威主義者なんて、今でも幾らでもいますし。
幸徳秋水『基督抹殺論』
狂信的マルクス主義者である獄中の俺が、科学で基督の存在を否定してやるってんで書かれた遺作。…ですが参考にしたのがルナンとかで、しかも好き勝手やったので出来たのは怪文書。付属してる獄中の日記を読むと割と大人しい人のようで、無理して戦闘的社会主義者を演じてた節も。
科学を僭称したカルトとして一番有名かつ最悪だったのがマルクス主義だと今では知られているんですが当時はそんな発想はできなかった。マルクスの著作を実際に読むと、これ科学でも何でもないただのドグマじゃねーか、と普通に分かるんですが皆簡単に騙された。
まぁ今の人が読むと本当にただの怪文書。しかも、怪文書としてもそんなにキレが良いわけでもない。とは言っても真面目に頑張ったのは分かります、能力が足りてなかっただけで。
モンテスキュー『ローマ人盛衰原因論』
当時の知識がいい加減だった事を差っ引いても共和主義をヨイショする為に大分豪快に歴史を捻じ曲げてる本(ついでにビザンツがけなされる)。歴史と思想、というか思い込みがある程度分離されるのは20世紀前後なので…
ルナンといい後で触れるヘーゲルといいこのモンテスキューといい、自分の思想(思い込みともいう)を開陳する為に歴史からチェリーピッキングして換骨奪胎するだけの行為を「科学」と呼んでるだけなんだな、残念ながら。こういうのが啓蒙時代の後から流行ってるって書こうとして、考えてみたらこのモンテスキューが啓蒙思想の代表格でした。相手を蒙昧と決めつけて、一方的に啓くと称するのが啓蒙思想。やってる事は宗教と一緒。
まぁ今でもこの科学もどきは続いてるんだけどな!
ルーシー・M・モンゴメリ『赤毛のアン』
古典という事で長旅のお供に買って読んでみたら、電車の中でのめり込んでしまいました。アンとダイアナの友誼が実に良かったです。ギルバートにはあまり乗れなかったんですが、後でくっつくんだろうなーとは思いました。実際続編でくっついてました。
以後、古典にある百合としてこの作品を推す事になりました。いや、アンとダイアナが恋愛関係って訳ではないんですが、本当にいい友人なので百合が好きな人が読むとそういう見え方がするんですよ。…考えてみると少女同士の友情にも大きく筆を割いてる作品って当時では他に殆ど無いのか。
それとマシュウが本当にいい大人なんだ。男子かくあるべしと思いました。
レ・ファニュ『カーミラ』
青空文庫に入っていたので。翻訳当時は「百合」の概念が知られてなかったのでレズビアン文学として扱われましたが、実の所百合の文脈で読んだ方がすっと通るんじゃないかな。
女性吸血鬼が女性の血を吸うのは性行為の暗喩だ、みたいな扱いをされたんでしょうけれど、これって今で言う「百合」の文脈まんまです。この作品が刊行された時点では当然「百合」なんて発想はなかった、けれど後世にこの単語に統合されていく要素はあったんですよ、この作品に限らず。
言わば早すぎた百合。いや本当に「レズビアン文学」ではなく、「百合」として読み込んだ方がこの作品の理解に資すると私は確信してます。
ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』
ギムナジウムの描写がガチ。ドイツ少年のいい匂いがします。少年が好きな人もそうでない人も読みましょう、必ず「わかる」から。それ故に結末が、ですが。
もっと単刀直入に言ってしまえば男性女性問わずショタコンの方々に是非。ヘッセ自身にそういうつもりがあったのか否かまでは分かりませんが、少年愛にときめく人だと絶対刺さる筈です。
いや、まぁ少年にガッツリ感情移入させてからのあの結末なんですが。
アーネスト・ヘミングウェイ『老人と海』
あらすじは割とどうでもよくって、ひたすら続くごつごつした文章が本体。ハーレーに乗ってる爺さんが荒野を駆けるのを眺める感じ。何でか知らないんですがこの人やたらとフェミニストに嫌われてるんだそうで。いや本当に何で? ハードボイルド=異教徒だってドグマで決めたから?
ハードボイルドって単語は固茹で卵という意味ですが、もっとごつごつしてます。岩を食ってるような文章。あらすじだけを書いてしまうと、カジキと戦って仕留めたんだけどサメに全部食われたというだけなんですが、それを読ませるだけの文章力はあります、やはり。
良いとか悪いとかじゃなくて、その老人はそこにいるんだ。
美辞麗句は必要ない。
ハリエット・アン・ジェイコブズ『ある奴隷少女に起こった出来事』
21世紀になって再発見された、あるアメリカ南部の黒人奴隷少女が無茶苦茶な事をされる中で手段として母親になり、か細い自由を掴もうとした自伝。たまたま文章の才能があって事実の迫力が凄まじいの一言。
差別の本場ってすごいね! ドン引きだよ!!
フィクション扱いされてたんだそうです奴隷にしては文章が上手すぎるってんで。もうこの時点で差別主義丸出しだよ! ともかく、ある研究者が当時の手紙を漁ってたらこの作品そっくりだと直観したので、調べてみたら本当の話である事、それと作者の名はハリエット・アン・ジェイコブズだった事が分かった経緯があるのだとか。
そりゃこんな歴史があったら今にも引きずるよね。何をやり返してもいいと思いたくもなるんじゃないかな。その報復でまた新たな差別が発生してるんだから人間って救えないや。
ブラム・ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』
これも今でも小説として普通に面白い作品。教授とかテキサスの人とか割と普通じゃない人間たちと吸血鬼との対決は必見。実はミナとルーシーがいい友人で百合に見える。…この時点だと吸血鬼の弱点ってにんにくの「花」を摩り下ろしたものだったり。
ノリはスーパー系というかライトノベルと一緒です。理由もなくなんか強いテキサスのキンシー・モリスが特にスーパー系。現代翻案とかだったら絶対チェーンソー振り回してますよこの人。
この作品で伯爵、ドラキュラを仕留めたのはククリナイフでした。豆知識としてどうぞ。またHellsingは予想以上にこの作品の影響受けてます。第零号はブラム・ストーカーの描写に由来してたのか…
サマセット・モーム『お菓子とビール』
主人公がある文豪の先妻に食われたりした青春の思い出から今に至るまでを描いたお話。「お菓子(ケーキの事だそうで)とビール」って一体どういう意味なんだ、甘くて苦みもある思い出って事なんだろうか。
イギリス階級社会の面倒くささがとても良く分かる作品です。ただおそらく作者はそういう話を書きたかった訳ではなく、単に当時の風習をつらつらと書いたら後世に残ってしまったという具合。
主人公を食った文豪の先妻ロウジーがいいキャラしてるんだ。いい性格ともいう。
ギ・ド・モーパッサン『女の一生』
夢見がちでひたすら無為無力な少女が流されるままに悪意にさらされて擦り切れていくお話。あまりにも状況に無抵抗なものだから、可哀想とすら思えなくなっていく自分が怖かったです。自然描写が雄大なので余計に。作者と当時の女性観ってこんな感じだったんでしょうか…
修道院上がりで一般常識が無い…までは分かるんですが。不倫の概念を理解できてないからクズ夫にメイドが孕まされた事をしばらく理解できなかったってのは、こう、すごいな!
そんな夫との間に子供も出来てしまったんですがこんな父とこんな母なのでまともな教育が成り立つ筈もなく…いや生まれつきっぽいぞ息子のこのゲスっぷり。それはともかく夫がアレ、息子もアレ、しかし何もしない主人公の女も大概アレです。こんなに何の気力も無い流されるだけの人間を読んだの初めてだったかも。人形が動いて話してるみたいでした。
F・スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャッツビー』
すごく…巌窟王リスペクトです…。いやそのIFでもあるんですけどね。そして結末はもっと苦い。当時の(狂騒の20年代というのだそうで。今始めて知りました)ニューヨークがどんな街だったのか見えてくる描写も流石。
車とか鉄道とか摩天楼がくっきり見えるんです、これが凄い。電気とか映画とかタイプライターもこの頃だとか。作者が生きていた時代をそのまま舞台として描いているんですが何故かレトロフューチャーの空気がします。これが当時のアメリカなんですけどね。
ジャズ・エイジの象徴でもあるんだとか。
ジャズ聞いてる人だと聞こえてくるんだろうか。
カレル・チャペック『RUR』
ロボットという概念が生まれた作品なんですが、この戯曲だと機械ではなく人造人間。後のロボットもの作品でお約束になる要素が既に色々と使われていたり。ロボットだって働きたくない! 黙れ劣等種のロボットども!! はこの作品が最初からやってます。
というかロボットが反乱する展開を始めてやったのがこれです。仕事を全部ロボットにやらせたもんだから人間が退化する、子供すらも産めなくなった人間はロボットにサクッと滅ぼされる、しかしロボットは自分で子供を作る(あるいはロボットを作る)事が出来なかった…までを初手で書いてます。
最後にロボットの男女が互いをかばい合うシーン、どういうつもりで書いたんでしょうね。そりゃ愛し合ってはいるんでしょうが、子供が出来ないのは何も解決してないので。…え、解決してるの?
労働を他の生物や階級に押し付けたら人間が退化してしまった、という発想はウェルズも『タイム・マシン』でやってます。…というか20年前の作品になるから影響受けてるかも。
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』
と、題しているけれど。実はクソと血とドベまみれな最前線でどうにかして女の顔をしようとした女性たちの伝記です。割と恣意が入ってて文字通りに受け取ると実態から外れるらしいんですが、それでも一読の価値あり。
良くも悪くも女の顔をしたまま戦場に行って、当然それで困る事も数えきれない位にあるんですが、かといって女である事を止めたりもしなかった、というお話。創作みたいに簡単に性別を捨てられたら誰も苦労しませんわな。そうは言っても戦争は容赦なんてしてくれる筈もないから、やっていくしかない。
手間に結果が追いついてるんだろうかと言われると首をひねるんですがね、やっぱり。ここまでして人口の半分を無理やり使う必然性はあるのだろうか…というのは後知恵で、使ってしまった以上は補償は絶対ですわな、そこは作者の言う通り。
ニコロ・マキャヴェリ『君主論』
今の人が見ると政治ってそんなものでしょとしか思えないんですが、当時は文章にしちゃうのはタブーだったんだなって。一方で言うは易く行うは難しで、当時の人にも実際にやってみろよとからかわれていたのを思うと何とも苦味が。
政治の現場にいる人は、具体的な方法論であるとか実際に何をやったのかを書き残さなかった。プラトンの頃からこのマキャヴェリに至るまで、政治を語っていたのは現場に何の責任も持っていない(当然経験もない)思想家、哲学者、神学者といった人々だったわけで、そりゃ彼らの思想に都合がいいように適当な事を書くよねって話ですよね。徳とか神の望みであるとかさ。
でもそれではイタリア分裂をどうにも出来なかった、本人も現場で仕事して傭兵が結局役に立たなかった、という事でこれを書いて権謀術数と常備軍が君主には必須であると主張しています。
しかし最前線からすると何を今更という話でもあったらしく、最前線の軍人にからかわれたのも先に書いた通り。ちなみにそのジョバンニ黒隊長という人は戦傷して28歳という若さで世を去ったのですが、彼は「理なくして剣を抜かず、徳なくして剣を握らず」と語っています。…傭兵、軍人、現場暴力が何をやらかしたのかを散々その目で見た人の言葉だからなぁ、視点が違うと物の見方も変わるよね、同じ時代を生きていてもさ。
黒隊長が28歳で死んだのが1526年、マキャヴェリが58歳で死んだのが1527年。30歳も年上の人に凄い事言うなぁと思ったんですが、黒隊長の生まれはメディチ家でとても家格のあ…庶流かぁ。
オルテガ・イ・ガセト『大衆の反逆』
民主主義社会が実際に到来したら皆その責任を自覚すらしなかった、という点は現代への警句にもなっているんですが。著者自身は貴族のつもりなのか大衆のつもりなのか。またスペインの貴族だと人類史屈指の無責任虐殺野郎コンキスタドールになるんですが、そこは意識していたのか否か。
…というかお前、スペイン内戦の時に亡命してるのかよ?! (自分の)教えはどうした教えは! 当のお前自身が責任から逃げてるじゃねぇか?!
フランコは大嫌いで相容れないとは公言していたとの事ですが、彼の研究所にフランコは特に何もしてなかったそうで。そりゃそうでしょ現場で戦った人には逃げた輩なんて視界にも入らないでしょうし。日欧米のアナーキスト気取りと違って自分の禄は自分で稼いだのはずっと偉いですが。
…まぁ大衆、マルクス主義者、テクノクラートらが己に何の責任も取ろうとしない、だから野蛮さへの回帰でしか無いと言ったのはそれはそれで事実だとは私も思いますが、内戦から逃げたのが全てを台無しにしてます。
彼自身は結局大衆のつもりなのか貴族のつもりなのかが分からなかった、という感想にこんなオチがついてくるとはなぁ。大衆未満だったという。
エドムンド・バーク『フランス革命の省察』
フランス革命が酷い事になった理由は書かれている通りでしょうし、大体の物事には理由があるから迂闊に変えるのは危ないのも同意できるんですが。昔通りだから良いならば半端に文明の恩恵に属してないで今すぐ山に帰れよとも。聖典と言える程かなぁ。
・数千年かけて数えきれない人々が積み上げてきた教訓に個人が対抗できる筈がない。
・数千年伝えられた事であっても迷信が迷信であるのは何も変わらない。
どっちも間違ってはいないんですよね。例えばアナーキズムをやろうとして派手にしくじったのが現代社会である一方で、迷信を粉砕して成立した科学技術や社会制度の恩恵を受けているのも現代社会なので。
自分で選ばなければならないんだ。昔通りだから正しいと決めてしまうのは愚かだし、己の責任の放棄でもある。…うん、やはりバークには「責任」の概念が欠けてると私は思います。
「なぜフェンスが建てられたのかわかるまでは、決してフェンスを外してはならない」(G・K・チェスタトン)という言葉は分かりやすくバークの影響を受けているでしょう。日本の、特に大学だと(教員が極左なので)あまり言及されないんですが割と思想史において重要な人物ではあります。
ヘーゲル『歴史哲学講義』
今読むとほぼ全てデタラメな(具体的にどうデタラメなのかを読んでみると結構面白い)当時の世界史から、都合のいい所を引っ張り出して歴史思想を作ってみたよというガバ本。ヘーゲル本人は全て網羅したつもりだったかもしれないけど。
ここでも言及したモンテスキューやルナンに続いて、ヘーゲルもやらかしてます。それも豪快に。マルクスの発展段階論は彼の発明という訳でもなく、ヘーゲルがそうであるように当時の思想家はみんな「科学」と名付けた進化カルトに踊らされていたのでしょう。あるいは踊らせようとしていたのかもしれませんが。理論や思想…というか思い込みが先にあって、そこに具合の良いものを当てはめても、結局何の役にも立たないのがよく分かります。
一方で、ヘーゲルおよび当時のヨーロッパにおける世界史のひっでぇガバを指さして笑う分には最高に面白い本でもあります。いや当時の人はこれでも真面目にやろうとしてたんだろうから嗤うのは良くないんでしょうが。でも自分が偉いと思い込んでる連中に、お前は偉くも何とも無いぞと突きつけてやるのってとっても気持ちいいんですよね。
三島由紀夫『不道徳教育講座』
何かとコンプレックスに苦しんでいた人だったんですが、多分こんな感じで気楽に生きたかった一面もあったんだろうなって。「不道徳」と言うけれど作者にとっての道徳?で色々な相談に身も蓋もない回答をつけていきます。
あ、やっぱり当時においても「無難」って扱いだったんですねこれ。皮肉としては正直ぬるいですし。いかにもこの辺が三島由紀夫らしくて、文の天才ではあるんだけど中身はごくありふれた普通の人で、けれどそれに耐えられないから奇矯な事をやろうとした。でも普通の人だから無難で常識の範囲に収まる事しか出来なかったのが何ともかわいそうですね。なんかちいさくてかわいそうなやつ=ちいかわ=三島由紀夫。
ホメロス『オデュッセイア』
何か困った事があったらアテナが知恵を貸してくれて何とかしてくれる話。ドラえもんかよ?! と思ったんですが、最後に神弓を見せる所は最強に格好良くてまさに英雄。…神話あるあるで現代人が読んでしまうと意外と物語や世界観のスケール小さいな、となってしまうのですが贅沢病ですわな。
この場面が極めて印象的だし、世間でもやはり弓の達人として語られているのですが、某fgoでアーチャーじゃなくてライダーとして扱われてびっくりしました。いやそんな所をわざと外すならそれこそ女体化くらい思い切った方が良かったのでは。
ペーネロペーやキルケーの名前はこの叙事詩に由来しています。富野監督が何を思って『オデュッセイア』から名前を引いたのかはよく分からなかったのですが。
柳宗悦『妙好人論集』
妙好人(浄土真宗の高名な一般信徒)の事績を紹介しつつ彼ら彼女らが普段遣いしていた文物の素朴な美しさも軽妙に描いています。これは日々徒然に用いられる物に美が生まれるという彼の思想の端的な展開だったりも。
一応私も親鸞で卒論書いているので、妙好人の事績を読んでみたくてこの本を買ってみました。この本題ももちろん軽妙洒脱に書かれているのですが、それと同じ位に文物…というか、美術品の描写に目が行きました。柳宗悦は芸術評論家として有名な人物で、宗教思想家としての仕事はあまり知られていないんですが、まぁ、だろうなとは思います。
妙好人達の信仰や念仏に強く惹かれていたのはきっと間違いない、のですがやはり美を見る目に天賦の才があったのでしょう。本人にそのつもりが無くとも牙もとい目の光は抑えられなかった。月に叢雲花に風とは言いますが、妙好人を紹介したいという月と花を遮ったのが才能という叢雲と風だったのが何とも、こう…こんな事もあるんだなって。
これにて百人完遂!
途中で二年も止まってしまったんですが、再点火してからは一週間かかってません。やっぱ私はやりきらないとダメなんだな。
こうやって読んだ本をまとめて感想を付けると、意外な位に影響受けてるんだなって自分でも分かります。考え方に限らず性癖とか好きなお約束とか。大変でしたが面白いので皆もやってみてほしいな。100だと大変だから50や20、10とかでも。
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