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なぜ主人公は馬のTシャツを着ているのか? 〜わたしは『TITANE/チタン』になりたい〜

複数の女性から「劇場に見に行ってひどく戸惑ったので脱輪さんの感想が聞いてみたい」と言われていた映画『TITANE/チタン』を見た。
感想?
「最高!天才!大好き!」


不覚にもドリカムってしまうほど興奮しているわけで·····
まったく、これ見て戸惑う女なんざ女じゃねえ!男だ!
監督のジュリア・デュクルノーについては、鮮烈な長編デビューを飾った前作『RAW 少女の目覚め』を見た際、「間違いなく天才やけど完全に頭おかしい」という感想を持ったものだが、今作ではもはやその天才性と頭のおかしさを隠すつもりがいっさいなく、「どやーーーー!!!」とばかり全開振り切って見せてくれていて最高。
すべてのシーンが天才にしか撮り得ないショットと常人には逆立ちしても思いつけないアイデアの連続で、最初から最後まで全身射精恍惚状態。
まーこんだけ天才であんだけ美人なら「男なんか皆殺しにしてやる!」と思わず叫び出したくなるような出来事にさんざんっぱら鼻っ柱を殴りつけられてきたはずで、そらあ鼻息も荒くあるわなあ。ぜひ皆殺しにしてほしい💗
もー書きたいことが山ほどあるけど俺は寝たいんだ!常に!一分一秒でも早く!
(執筆時刻午前3時)

とにかくこれは究極の愛を描く映画なのだが、それでいて究極の愛を描く〜という決まり文句の抽象性に断固NOを突き付け、ラディカルな思考実験/身体実験の果てにあり得べき愛のかたちを具体的に提示してみせる明晰な蛮勇に心が震える。
さらに言えば、その中身が「“異性”との対等な交流はいかにして可能、あるいは不可能か?」というクソきちい問いの回答になっている点において、「究極の」は「普通の」とナチュラルに言い換えられるべきであり、“多様化”とやらが招来するはずの未来はそのような自由の幅をも容認するものでなければならない。
本作のごとき真っ当な映画をいつまでも「変態映画」呼ばわりしてツウぶったアホ面を晒している場合ではないのだ。
いやまじ、こんな本質的な作品、滅多にないから!キワモノ扱いすんな!芸術扱いなんかもっとすんじゃねえ!
たしかにジュリアは頭がおかしい。完全にイカれとる。と同時に、本作は映画の鉱脈が掘り当てたかけがえのない宝石なのだ。

言うのも小賢しいが、どうせ誰も触れてないだろうから書いておく。
映画中の重要なモチーフである車や金属パーツはもちろん男根の象徴だが、馬の存在を見落とすべからず。
自動車事故に遭い頭蓋骨にチタンプレートを埋め込まれたアレクシアが両親とともに退院してくる場面で、幼い彼女がピンクの馬のイラストが転写プリントされたTシャツを着ているのは、チタン=金属=車との融合によって男根に象徴される男性性を体内に取り込んだ事態を表している。以来アレクシアが肌身離さず持ち歩くようになるチタン製のかんざしは、未発達の小さいペニス=ピンクの子馬の直接的な形象化であるにほかならない。
したがって、大人になったアレクシアがモーターショーの車を相手にセックスできるのは、同じチタン族としての種の連続性を保っているからだし、男の力を借りずして自力妊娠が可能なのも、あらかじめ男性的なるものを体内に獲得していたからなのだ。
馬のモチーフは繰り返される。
男嫌いのアレクシアと彼女を行方不明の息子と妄想的に信じ込む消防隊の“隊長”ヴァンサンとの世の道人の道に外れたしかしそれゆえにまっさらで純粋な親子=異性関係が成立していく過程において、その最後の仕上げがなされたことの証として登場するのだ。
レスキューという共通の仕事を通じてヴァンサンとアレクシアの信頼関係が決定的なものへと変化するシーン。心臓発作を起こした男性と老母を救助するべく、ヴァンサンが口ずさむ『マカレナ』のリズムに合わせてアレクシアが心臓マッサージを試みる場面で、ヴァンサンのバックに室内に貼られたポスターが映されるのだが、そこには前足を悠然と高く掲げた黒い馬のイラストが描かれている。
それまで拒絶を受けてきたヴァンサンがついにアレクシアにとっての真の男性=父として認められた事態が示唆されているわけだ。
ここに至って、ピンクの子馬はたくましい黒馬に巡り会い、半端なペニスを受苦(passion)してしまった少女は圧倒的で揺るぎない父のペニスと融合するのである。

『マカレナ』✖️人命救助のぶっ飛んだ組み合わせもさることながら、まさかヴァンサンがあのタイミングでZombiesのスウィートな失恋ソング「She's Not There」をかけるとは!(つまり彼の無意識はアレクシアが「She」である事実に気付いている)など、音楽の使い方も異常なまでにハイセンスなのだが、特筆すべきは音楽が流れるシーンと人が踊るシーン、つまりは比喩としての“クラブシーン”がどれもこれも死ぬほどかっこいい!という点だろう。
『RAW』でも同じことを感じたが、間違いなく世界一クールなクラブシーンを撮る人だ。
かつて中原昌也はトビー・フーパーのことを「ディスコ映画の帝王」と呼んだものだが(『ソドムの映画市』)、ジュリア・デュクルノーこそは「クラブ映画の女王」であると断言したい。
これはひとえに彼女が持っている皮膚感覚の研ぎ澄まされた鋭敏さのゆえだろう。
比較対象として真っ先に名前を挙げられそうなデヴィッド・クローネンバーグが、同じボディ・ホラーの作り手といえ、どちらかと言えば内臓感覚の人であるのに対し(ちなみに本作の音楽を担当したのは『RAW』から続投となるジム・ウィリアムズ。デヴィッドの息子ブランドン・クローネンバーグの『ポゼッサー』も手掛けている)、ジュリアは完全に皮膚感覚の人だ。
そこに毎月体内から大量の出血を経験する女性という種ならではの冷めた観察眼が掛け合わさり、強烈な生理感覚がプラスされている点が白眉。
人体にまつわる鋭い感覚を全面解放することにより、『RAW』ではせいぜいのところラディカル・フェミニズム止まりだったテーマが、モンスターとしての異性・異類との関わりを巡る全人類的な視野にまで高められている点が素晴らしく、真の意味で過激。
ああ、今すぐ『TITANE/チタン』になりたい!!!


※おまけ

エル誌によるジュリア・デュクルノー監督の独占インタビュー。
作家自身による最高の批評を読むことができる。
上記拙文において、僕は「皮膚感覚×生理感覚の人」としてジュリアを定義付け、直感的にデヴィッド・クローネンバーグとトビー・フーパーの名前を挙げたのだが、インタビューを読んだらすべてがそのまんま当てはまりすぎていて笑ってしまった。
なんかわかるんだよなあ、こーゆーのは。

ほらね?



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