見出し画像

光ある未来へ

こんにちは。今週は、わがことの鹿庭が担当します。
僕が経営している八百屋sanukisでは毎年12月30日に餅つきをして、予約販売を行っております。あんこも僕の手作りです。先日、レジのところにスタッフが今年のお餅の予約ノートを作ってくれていました。それを見てようやく年末ということを実感して、少々焦る今日この頃です。

その八百屋は、このコロナウイルスに関する世の中の情勢に大きく振り回されました。まったくもって情けない話です。ただ、僕自身はコロナにはほとんど振り回されずやるべきことをやり続けておりました。

自分のお店のことや、わがことや子育て団体、小学校の授業などにも関わらせていただいて数ヶ月。多少なりいろいろな話を聞く中で、世の中の情勢にすごく違和感を持つようになりました。このような状況ですのでおそらく皆さんも持っていると思うのですが、そういうことさえ言ってはいけないような風潮になっていますね。時々写真を撮りに出かけると、花は何事もなく咲いているのに、人間はなぜこんなにアタフタしているのかなと思ってしまいます。

画像1

現代において「宗教」という言葉はとても敬遠されます。おそらく怪しい、うさんくさい、洗脳、結局は金儲け、というイメージが多いのでしょう。しかしながら、日本人のほとんどは神社やお寺にお参りもする、お守りも買う、仏壇に手を合わせる、そして歌や詩にはたびたび神様が登場しそれに心打たれたりと、とても身近な存在であります。ですが、普段の生活では宗教という言葉が少し遠いところにある気がします。

画像2

そうした宗教との付き合い方にも僕は違和感を覚えますが、それよりもコロナ感染対策に対する人々の姿勢にとても違和感があります。日本人の多くがマスクとワクチンと距離をとることが身を守ることだと「一側面からの情報だけをもってそれが世の中の正義だと信じている」、まさにこれこそが間違った宗教の見方と同じような状態だと感じています。

まず前提として、ここでいう「間違った宗教の見方」とは、宗教=自分で考えることなくただ「信じさえすれば救われる」とすがるものである、という認識です。しかし、キリスト教にしろ仏教にしろ新興宗教にしろ、本物の宗教に信じただけで救われるものなどありません。どの宗教にも神や仏の「教え」というものがあります。その教えを自分の人生に落とし込み、探究し実践し、自らの人生を向上させることで人や世の中の役に立ち、本質的な幸福を目指していくのです。宗教とは、幸福な場所に連れていってくれるバスのようなものではなく、道標(みちしるべ)のようなものなのです。その道標を正しく判断し自らの足で歩いていかなければならないのです。

画像3

自ら考えなくても言われるがままにするだけ救われる。その間違った宗教観が、現代において宗教とは別のところで蔓延しています。
感染症専門家だけの見解によるコロナ対策が本当に僕たちを守ってくれるのでしょうか?
1年半、ずっとマスクをしなければならず、距離をとり、アクリルパネル越しにしゃべり、まだ効果も安全性も確立されていないワクチンを打たなければいけない風潮にさせられてきました。
このような世の中で子供たちの未来は守られるのでしょうか?
まるで感染症専門家が最高指導者の教祖のように、唯一それが国民の幸せを守るものだと言い、メディアも他の見解は無いものもしくは間違ったものとしながら、日々「今日の感染者数」を発表しコロナの恐ろしさを印象づけています。
そもそも陽性者=感染者ではないと政府も言っていますが、メディアが陽性者=感染者だと発表することは許されています。その印象操作が毎日続けられることで国民が自ら考えることをやめ、メディアで報じられる感染対策を信じ守ることが自分たちの幸せな日々を取り戻すことだと刷り込まれていきました。

たしかに感染を抑える一定の効果もあったには違いません。しかし「大切な人を守るために」という耳触りのいい言葉により思考が停止していないでしょうか?これを続けることで私たちの未来は本当に良くなるのでしょうか?

このように言うと陰謀論者や非国民、自分勝手な人だと言われることもあります。「今はそういう時代だから世の中に合わせないと」という意見も聞きます。「自分だって嫌だけど、みんなに合わせるのが正しい」と言う人もいます。

 違和感

世の中の多くの人が信じている(信じさせられている)ことが、いつも正しいことなのでしょうか?免疫学や他の専門家はなんと言っているでしょうか?
ワクチンを打たない人はまるで人権がないように扱われることもあります。自由に行動できる権利を奪われるかもしれません。
このままで子供たちの未来を守れるのでしょうか?

画像4

LGBTQやさまざまなハラスメントなどの社会問題において、権利や処遇が主張され認められてきています。ですが、なぜワクチンを接種しないという権利は主張することが良くないように扱われるのでしょうか?
ワクチンにただ反対というのではないのです。ワクチンの副反応で多くの人が苦しんだ事実、報道されているだけでもワクチンを接種した直後に亡くなった人が1,300人を超える(東京新聞より)事実があるにも関わらず、接種するかしないかを自分の意思で判断することが認められなくなってきました。

テレビ番組のコメンテーターは言っていました。「他の人を守るためにワクチンを打ちましょう」
ワクチンのリスクやコロナに有効性のある薬に関してYouTubeや SNSで発信するとアカウントを停止されるという事実も起きています。

何を信じさせられているのでしょうか?

「なにか間違っていることはわかっているけど今は仕方がない」多くの人が実はそう思っているかもしれません。そう思いながらも「自分や他人の人生をより良くしようとする正統な宗教」は信じることができないが、自分たちの人権を脅かし子供の未来を奪うかもしれない「コロナ感染対策教」には従うことができることに、とても違和感を覚えます。

1人でも多くの人に伝えたい。

今の僕らの日々の選択が、子供たちの未来を大きく変えていきます。僕らが今の自分たちの安心だけを選べば、見えないところで何も言えず苦しむことになる人たちがたくさんいます。今何もわからずマスクをさせられている子供たちは、身体的にも精神的にも成長を阻害されています。さまざまな経験の機会を失っています。

私たちは今、子供の成長や自分たちの民主主義を犠牲に「風邪をひかない」ということを重要視しているように感じてなりません。重症化したほとんどの人は初期治療がなされなかったからだと多くの医療従事者が言っています。

新しい生活様式や、withコロナの地域づくりなどと言われていますが、そのようなものが人や地域を幸せにできるとは思いません。生活のあり方とは、人間が長い間積み重ねてきた歴史の中で少しずつ変化してきたもの、人と人とが深く関わり合って築いてきたものなのです。変わりゆく中で失われたものもあります。
ですが大切なものも守られてきました。それを躊躇なく捨ててしまっていいのでしょうか。

画像6

地域づくりとは仕組みや活動のかたちをつくるだけではないのです。そこにいる人たちが本質的なより良い未来を目指し、困難や問題にも向き合い、自分たちの行動や言葉で未来をつくっていくことだと思っています。

だいぶん尖ったことを書きましたが、先日見かけた光景が忘れられず、どうしても書かずにはいられませんでした。ある幼い兄弟とそのお母さんが3人しかいない公園でマスクをつけて遊んでいる姿を見た時、なぜ世の中の目はこの親子が安心してマスクをはずして笑いあうことすら許さないのかと、悲しい気持ちになりました。

人が幸せでいられる地域をつくるために、世の中の情報や方向性が本当に正しいことなのか、知識だけでなく本質を見ようとする「智慧」でもって考えたいものです。人を支える側の人が笑顔を隠してどうするのですか。日本の歌の中から「笑顔」という歌詞が消えないように、強い意志で、人間の強さを信じたいものです。

家庭の中でご飯を食べながら楽しい会話が生まれるように、美味しい野菜を届けます。それが僕の地域づくりの一歩目です。

画像5

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?