①鈴木茶苑1-1(静岡県川根本町)

今回は鈴木茶苑さんの紹介をさせていただきます(*'▽')

鈴木茶苑さんは、初代の勝彦(かつひこ)さん夫婦、息子である2代目の健二(けんじ)さんと妻のかほりさん、そして2代目の間に生まれたひーちゃん。家族でお茶の栽培、製造、販売を営む農家さんです。

初代である鈴木勝彦さんと出会ったのが約5年前。勝彦さんの印象は、とにかく子どもみたい…!お茶が大好きで、どうやってお茶で遊ぼうと色々挑戦していて。その姿は純粋で、本当にお茶作りが楽しいんだ!という印象を受けました。面白いお茶屋さんをたくさん知っていて、私自身もたくさんの場所に一緒に連れていってもらいました。私が今お茶好きなのも、勝彦さんの影響がかなり大きいです。

それから2代目の健二さん夫婦とも仲良くさせていただき、今もパワーをたくさんもらっています。なにしろ健二さんのお茶の話を聞くうちにお茶作りをやってみたい!と思い、ド素人の私が現在茶畑を借りて、本当にお茶の栽培をしているのです。

今回はそんな2代目の鈴木健二さんにお話を伺いました☺

この記事、めっちゃ長いです(笑)

だけど、全部載せてみることにします。

※インタビューは令和元年12月に行った時のものです。

1. お茶の世界へ

茶ノ海:鈴木健二さんは、鈴木茶苑の2代目。1代目(父親である勝彦さん)の姿を見て跡を継ごうと思ったのでしょうか?

健二さん(以下、健):僕が鈴木茶苑を継ぐことになった経緯、順を追って、話してみますね。周りは茶畑、僕にとってお茶は日常のものでした。お茶を作る世界へ入ったのは19歳の時。アルバイトとして工場に入りました。就職してやりたいことが無かった僕が茶工場の仕事を選んだのは、「茶師」という職人的な憧れがあったから。そしてお茶を揉んで作る、それには専門技術が必要です。だからもし仮にここを辞めても、茶師として腕が良ければつぶしがきく、他でも使ってもらえると思いました。当時はお茶も好況で、茶師が皆楽しそうで、カッコ良かった。何も知らない自分でも、良い時給がもらえて嬉しかったです。


僕の時代って、ちょうど就職氷河期時代で。農家はどちらかと言えば人気がなくて、都会に出て働くのが当たり前だった。その時から『自己実現』だったり、何者にならなくても良い『フリーター』って言葉も出てきました。
僕は会社員として働く道を選ばなかった。会社員って自分にとって、とても怖いことだったんです。というのも、今もし会社員として働く選択をすれば、この先ずっと会社員として働き、きっと定年までそのまま。それはそれで僕はやっていったと思うんですけど、その代わり他の世界、つまり会社員にならなかった場合のパラレルワールドの自分がいなくなる・・・他にできたかもしれないことが選択肢がなくなるということでもあって。当てはめすぎるのが怖かった。


だけど茶工場の仕事なら、茶時期以外は他の仕事ができました。お茶の世界に入って4~5年は時給が良かったから、茶時期の半年くらい仕事をやれば、後の半年は林業とかをしたりして。『お茶以外の自分』の可能性を残しておくことができた。 …そんな僕が家を継ごう、お茶で生きていこうと思ったのが、3年前(2016年)です。

お茶で生きていくことを決断する=パラレルワールドの自分がいなくなること、とお話ししたんですけど、面白いことにお茶の世界は多岐にわたっています。お茶の道と行っても、そこからさらに細分化された道の前に立っただけで、どれを選ぶかの選択肢って、たくさん残されている。お茶っていうおおまかな道筋が決まっただけなんだなって。

2. お茶の未来

茶ノ海:働いていた茶工場を辞めたきっかけは、何かあったのでしょうか?

健:20代になり、最初に話した工場とは違う、他の茶工場(仮称:A工場)で働くことになって。このころから急に世の中の景気が悪くなっていったかな。お茶も例外ではなく、売り上げが10年で半分くらいの値段に変わりました。かかる経費も上がり、高齢化もあり、実際のところ、農家という職業は成り立たないんです。


僕はこれから茶農家はなくなると思った。自製自園の農家だったり、工場へお茶の原料の生葉だけを売る農家さんだったり、そのような職種は経営としては成り立たっていかないと思いました。そこでこれからどうやって農業を守るか考えた時、企業でやるしかないと思ったんですね。

例えば今、非農家出身で、農業に関心のある人はいるけど、本当に農家になるには機材を買ったり、作物ができるまでは収入が無かったり、投資が大きくてハードル高いものになってしまっています。そのハードルを下げ、茶産業を守る、地域で作るためには、農業生産法人を作るしかないと考えました。

相対的な設備投資は人が集まれば個々人の負担が少なくなる。法人という形で収入を得、社会保険にも入って、若い人たちが働きやすい安定した職を作る。そういう形でないと成り立たない。

…実は、そんな僕の思い描いていたことをやっていたのが、当時僕が勤めていたA工場でした。そこは僕が務めていた時からそのようにやっていきたいと思っていたし、実際に企業という形で経営が成り立つようになり、アルバイトを雇用して、会社員として社会保険も入れて、僕の20代の時に目指した形を完成させたんですよ。・・・だけど、僕はそこから飛び出しました。

3. 茶工場時代

茶ノ海:理想の形ができたのに、そこから飛び出したんですね。ちなみに当時はどのような仕事をしていたんですか?
健:A工場に勤めて3年目の時、僕はお茶の製造を任されるようになりました。出来上がった製品に対してフィードバックは入るものの、機械の設定は、全て僕の判断で行う。その工場のお茶の出来不出来は、僕が決めているといっても過言ではなかったです。


それまでお茶に求められていたことは、とにかく葉を「ふかす」ことで、渋みがなくアミノ酸値が高いお茶でした。だけどそのころから、求められるお茶の質が変わってきました。

お茶で大切なのは、一番は水色(すいしょく)、そして形状だと言われるようになったんです。針のような形状で且つ、淹れたその茶の色を、どれだけ綺麗な緑色にできるか。つまりお茶は、見た目重視になってきました。


お茶は蒸せば蒸すほど、水色(すいしょく)は茶色に近くなります。僕が最後に勤めた5年間は、何回お茶を作っても水色が「赤い」と言われました。普通に見る分には緑なのに、それでは茶商さんに求められている色ではないと。だけど「緑色」を追求すると、今度は渋い、形状が悪いと言われる。


どうしてお茶を飲んで、ウマイかマズイか、が判断基準じゃないの?見た目ってお茶の本質じゃないのに。そんな気持ちが募って、当時は気付かなかったけど、僕工場ではすんごいイライラして、怖い顔をしてたみたいです(笑) 


そのころ、茶工場にいると体調が悪くなりました。要求に応え、自分の中で会心の出来って思った時ほど、評価が悪いことも多かった。12時間かけてお茶をよく見て、研究して、こうしたら良いんじゃないかって試行錯誤して、全身全霊で作り上げたものを、次の日のフィードバックで「赤い、形状も曲がってる」って現場を見ていない人がさーっと来て、ポチポチっと機械の設定を変えて帰っていく。それで出来上がったものを、茶商さんはそっちが良いと選ぶ。とてもガッカリしました。

20代前半はお茶を作るのは大好きな仕事でした。24時間でもやっていたいって言うくらい。だけど、このころ、茶工場の仕事は好きだし得意だけど、楽しいものではなくなりました。・・・仕事だから割り切るしかないなと思うようになった。それが30歳前後の時かな。仕事って大変でつまらなくて、だけどそういうものだ、って思うようになった。お茶が仕事になった瞬間でした。


それから僕は職人に徹しようと思った。自分の中で「お茶はこうあるべきだ」というのがあるけれど、それは割り切って、茶商さんの求められているものに合わせて作る。製造に関しては責任も背負っていたし、会社全体の利益を考えたら、そうするしかない。だからと言って、冒頭に話したみたいに個人農家はこれからやっていけないと思っていたから、自分の好きなお茶を作って個人農家としてやっていくという考えはなかったし。この先ここで僕が作るお茶は、そういうお茶だ。って割り切ったんですね。



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