①鈴木茶苑1-2(静岡県川根本町)

※インタビューは令和元年12月に行った時のものです。


4. お茶はやっぱり面白い

茶ノ海:前回までは、お茶作りは仕事と割り切り、言われたことに徹しようと思ったというお話でしたね。 

健:僕の親父は鈴木茶苑1代目。もちろん親父が釜炒り茶や紅茶なんかを作ってるってことは知っていたけど、A工場で働いている時の僕は全く父のやっていることに興味を持ちませんでした。むしろ、親父が茶を作れなくなったら、機械はどこに譲ろうとか、そんなことまで考えていました。


家に帰ってからの会話でも、僕はお茶の話を一切したくなかった。親父はA工場でのお茶の様子など聞きたがったけど、僕は無視してた。


僕がオンとオフをしっかり分けたい性格だから、仕事のことを家に持ってきたくなかったというのもあって。だから20代は親父とお茶の話はほとんどしなかったです。


今でこそ「面白いお茶あるから飲もうぜ」みたいな話をするけど、当時は本当に他の人が作っているお茶についても、父がやってるお茶づくりについても興味が持てなかったんです。さっき言ったみたいに「お茶をやるなら企業として、大量生産での利益、経費を抑えることでしか、茶の未来はない。」って思ってたところもあったので、個人でお茶をやること自体に興味が持てていなかった。


そんな僕が変わり始めたのは31歳で奥さんと結婚してから。最初奥さんが、親父のやっていることは面白いと言ってくれたんですよね。そこから仕事と並行して、趣味で親父のお茶づくりを手伝うようになりました。


転機になったのは、台湾で有名な茶師のウーロン茶講座を偶然受講した時。それまで紅茶やウーロン茶は、煎茶とは別世界のものだと思っていました。

・・・だけど、実際一緒にウーロン茶作りをやらせてもらって、ぴんときちゃった。これって煎茶と全く同じだ。って。


つまり、最終的に葉を乾燥させるための工程が違うだけだって気づいたんです。

お茶の工程を大まかに言ってしまうと、葉っぱの中の水分を、どうやって綺麗に均一に抜くかということに集約されます。

一般的な煎茶は蒸す→揉む→乾かすの工程を取ります。だけどウーロン茶も基本の原理原則は同じ。煎茶と違うのは「萎凋して炒る」という工程が入るけど、最終的には「葉の中の水分を綺麗に抜いて製品にする」ところに行きつくんです。手段の違い、水事情の違いがあり、違う過程をたどるけど、目指すべきもの、本当の意味でやることは全く同じだって気づいて。初めてそこで、お茶作りがすごい面白いと思った。


自分が10年間、茶工場で働いて学んできたことが、ウーロン茶を作るための作業で置き換えられたんです。煎茶でのこの工程は、ウーロン茶作りではここを兼ねていて…というように、自分なりに教科書じゃない原理が分かった。それが分かったら、もう俄然面白くて。それからは親父が発酵茶作りをやるって言ったときはついて行って、自分でもやってみたり・・・


これが初めて自分が能動的に、お茶作りをやりたい!と思った出来事で、20歳前半の時にお茶作りの楽しさを知って、ワクワクしていた時の気持ちを取り戻した時でもあって。それから父の手伝いで釜炒り茶を作るようになったのが、鈴木茶苑としてやっていきたいと思った理由です。


それから釜炒り茶も、1~2年目の間は楽しかったんですが、そのあと逆に、蒸し煎茶の良さも分かってきました。上手く言えないけど、蒸し煎茶はすごく痒い所に手が届くというか、釜炒り茶はどれだけ突き詰めても、行き届かないところがあるなあって。的確な表現ではないんだけど・・・蒸し煎茶は完成されていて、隙が無い。反対に釜炒り茶は不完全なものだと気づいたんです。釜炒りの工程では、葉がしっかり炒られる個所、そうでない個所の差ができる。だけど蒸し煎茶は、蒸しの工程で、葉に水の分子を行きわたらせることができる。

うーん、これはもう少しやっていけば的確な表現ができると思うんだけど・・・簡潔に言うと、本当に僕がやりたいのは蒸しなんだ・・・と気づいたんです。それが今の工場を作るきっかけになりました。

5. 自分にとってのお茶づくりとは


健:台湾のお茶師は、萎凋、炒るまでは超気を遣います。だけど、炒り終わったらあとはどうでも良いんです(笑)!揉捻も乾燥も適当!それまでで9割9分できたようなものだから、あとは乾けばいいんじゃない?って感じで。

日本人だと気質的に突き詰めたい性格だから・・・何時間おきに攪拌?何時間おき?水分何パーセント?葉っぱの温度は?とか気になっちゃう。だけど台湾の茶師にそれを聞いても、そんなこと知らないよ、だって感覚でわかるもん。なんで何度が何分って話になるの?って感じなんです。

日本の今の製茶機械って、センサーが発達してます。水分計(お茶の葉に今何パーセント水分が残っているかが分かる機械)とかついていたり。それが日本人の琴線に触れるんですよねえ・・・

だけどウーロン茶作ってみて、僕はこんなお茶、手、感覚を使ったお茶作りをやりたいなあって思いました。

僕の勤めていたA工場は、毎日とてつもない量の茶の生葉(原料となる葉)が運ばれてきます。A工場で僕のしていた仕事って、お茶を作るというより、「どれだけ生葉を安定的に流せるか」が最優先でした。

僕は10トンのお茶を2トンにする仕事をしていました。(お茶は水分を抜いて作るので、最終的に加工したお茶は水分が抜け、生葉の約5分の1の重さになります。)

いろいろな葉っぱをどうやって安定して、機械に流そうかなって。機械のラインを安定させることしか神経が向かないんです。その方法だと当然お茶そのものに向き合うことはできなくて。とにかくトラブルが無いと良いなー、機械が詰まらなければいいなー、上の人になんて言われるかなー、と思いながら、機械操作をして作るお茶だった。

対してウーロン茶・釜炒り茶は、生葉の最小単位が12kg。それに20時間向き合い、この葉は上手く水が抜けないから取っちゃおうとか、とにかく1枚ずつ葉っぱを見ながら作りあげるお茶なんです。改めて自分がお茶を作る人間としてどうありたいか考えた時、やはり1枚1枚の葉に向き合いたいって思って。

不思議と、自分が作りたいお茶が見えた時、大量生産は虚しいと感じるようになりました。もちろん大量生産は悪いことではありません。お茶が安く行きわたるのはそのおかげだし。形としてあるべきとも思っています。

自分が大きな工場でやってきた経験も踏まえ、大量生産のお茶作りが嫌だなと思うのは、資源をたくさん使うこと。海外製の化学製品や化学肥料を使い、船で来たものを、畑にまく。タンクローリーが着て重油を入れて、大量消費でお茶を作る。国内海外の燃料を消費する。あまりにも用いれ持ち出しが多いなって思います。それはお金だけがたくさん動く世界で、自分の身の丈に合ってないと思ってしまう。

その先も考えます。大量に作り、労力と資源を費やしてできたものが、相手にどれだけの価値を生むんでしょう。一瞬で消費されて終わりじゃないかなって。その人の人生の何億分の1のインパクトかと思うとすごく空しい。

大きな工場で作るお茶と、ウーロン茶や発酵茶を作ることと両方経験して、自分にとってお茶って何だろうと考えた時、今までは無意識に、周りに茶畑しかない環境で、お茶は水みたいに接してきた。そういうものに対して、さっき言ったみたいに、仕事としてお茶をやり、工場から出ればその他のお茶なんか知らない興味ないって思ってて、だけどお茶の仕事をやってるはずなのに、工場に行けば制御盤とかモニターとか機械の流れとかを見るだけで。

お茶を見ないでモニターを見てたんだ・・・っていうのは、ウーロン茶の講座に行ってから始めて分かりました。茶商さんのことを、味も分からないで見た目だけ気にして!って文句言っていたけど、自分がお茶を作ってるときには制御盤の画面見てるだけだったなんて!って気づいたんです。

お茶の生葉、栽培のこと、僕は何も知らなかった。10年お茶を作ってきたつもりで、お茶のことを全く見てなかった。

それが30半ばでやっと分かりました。

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