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人魚姫問題に思うこと 〜私たちが人権を守ると決めたことの意味

※この連載の意見は筆者個人の意見であり筆者の所属する事務所や団体の意見とは異なることがあります。

先日、某大学の近くを歩いていたら、スマートで爽やかな大学生男子の2人連れが後ろを歩いていて、例のリトルマーメイド問題の話をしていました。
「いやー、やっぱ、人魚姫の配役は変でしょ。考えてみ?ジブリのかぐや姫を、金髪碧眼の美女がやるようなもんだろ」「あー、それは違和感」「だろー?」

実写版『リトル・マーメイド』がついに公開! 黒人アリエル論争が顕にした人種差別

はいはいはい、ちょっと待ったー。君たちね、ちょっとそこに座りなさい。いい?今からお姉さんが説明してあげるから。よく聞いて。
て、言いたくなりましたよね。

いい?君たち。
まず、いまの日本や米国で、人種差別はしないことになってる、という前提はいいよね。私やあなたは日本人だから日本の話だとして言うと、少なくとも日本国憲法は人種差別は禁止としていて、私たちはそれを受け入れてる。それはいいよね?

でね、人種差別も含めて、すべての目的とか行為っていうのは、常にコンフリクトが生じ得るの。コンフリクトっていうのは利害の衝突ね。「あちらを立てればこちらが立たず」ってやつ。
人種差別の禁止も、当然、コンフリクトが生じることがある。例えば、言論の自由とのコンフリクト。
今の日本では言論の自由が認められているけど、人種差別の禁止と衝突するところでは、その自由が制限されるでしょ。言論の自由があるからって、人種差別発言をしたら、損害賠償請求されたり、名誉毀損罪や侮辱罪で逮捕されることもあるよね。
言論の自由っていうのは、憲法の定める人権の中でも特に重要とされているの。そんな重要な自由ですら、人種差別禁止の前に制限されることがあるわけ。

で、今回のリトルマーメイドは、映画だよね。娯楽、ひいては芸術とも言えるかもしれない。
芸術は本当に素晴らしい。
私だって、素晴らしい絵画や物語に救われてきた人間だから、芸術を突き詰めていきたいという気持ちはよくわかる。

でもね、やっぱり、芸術と人権が衝突したら、それはやっぱり人権が優先されるんだよ。
(もちろん今回のリトルマーメイドの配役が芸術性を減じてるとは私は全く思わないけれど、先ほどの大学生みたいな意見もあるということで)
何故、人権が優先するのか?
それは、私たちが、そう決めたから。
たとえ芸術を犠牲にしなければならないときがあっても、私たちは、人権を尊重する。
そう決めたんでしょ?
日本が近代になった、そのときに。

例の東京オリンピックの作曲家降板問題なんて、その典型かもしれない。
私はオザケン世代でオリーブ読んでフリッパーズギター聞いてたから、Oさんが作曲したオリンピックの曲を聴きたかったっていう気持ちはある。
だけど、私たちは、障がい者の人をいじめるなんてことはあってはならない、と決めたんでしょ?
だったら、芸術の方を諦めなくちゃ。
私たちが芸術より人権を優先する、と決めたんだから。
(もちろんこの問題には、過去の話行為をどう捉えるかとか複数の論点はあるのだけれど)

いい?人権はね、ポエムじゃないの。
私たちが歯を食いしばって、あらゆるものを犠牲にして、それでも守らなければならないって決めた、そういうものなの。
人権をポエム化して、それに対して「いかにも合理的で論理的です」っていうような言説で軽んじて良いものじゃないの。
「かぐや姫を金髪碧眼美女がやるようなもの」だあ!?
あんたまさかその意見を「合理的で論理的でスマートっしょ」とか思ってんじゃないでしょーね!?

素晴らしい歌唱力と演技力を前にして、人種なんて関係ない。
だけど未だに、ハリウッド映画という世界で最も影響力のある媒体において、多くの主人公が白人であるという歪んだ現実が、ある。
その歪みは歴史的に作られてきたもので、私たちが目指す人権のあるべき姿とは、違ってる。
それを、ほんの少しずつでも、変えようととしている人たちがいる。
3歩進んで2歩下がるくらいの進度だけど。
その努力を、「変じゃね?」くらいの違和感で、5歩も6歩も元に戻してんじゃねーぞ!!
と、言いたかったのだけど、言えなかったので(社会人だから)、ここに書きました。

弁護士 野村彩(のむらあや

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