いちじく

子どもの頃、家の裏庭にいちじくの木があった。はるか昔に使われていた井戸の近く。夏には道路にはみ出すくらい大きく育ち、たくさんの実をつけた。いちじくはあまりみずみずしいものではなく、フルーツ界の中でもマイナーな部類に入る。口に入れるとごそごそするものの食べごたえがあって好きだった。


集団下校をしていたある日、山本先生(仮名)がうちのいちじくを勝手にいくつかもぎって食べてしまったことがあった。道路に枝がはみ出すくらいだったし、人の家のものだとは分からなかったのだろう。別学年の若い新任の先生だったので面識はなかったし、自由な人だなくらいにしか思っていなかったが、先生は悪いと思ったのか後でポケットティッシュを2つくれた。旨かったぜ、すまんな、などと笑いながら照れながら。うちの親もしょうがないわねぇと笑っていたが、いちじくはこんな価値しかないのかと少し切なくもなった。
後日、町のお祭りかなにかの流しそうめんでまた先生と会った。誰かと来ていたのか分からないが、とても無邪気で楽しそうだった。私は山本先生のことを少し好きになった。


しかしその1ヶ月後くらいだったか。突然山本先生が亡くなったという知らせを担任の先生から聞かされた。
あんなに元気だったのになぜというか、まったく理解できなかった。人は突然死ぬ。そんな現実の衝撃に初めて触れた。当時歳をとると死ぬことを祖父から学んだばかりだったが、このことはあまりにも不条理だった。誰に聞いても詳しい理由は分からない。
さ、授業をはじめよう。さ、ご飯を食べよう。そんな大人の言葉で僕らは強制的に日常に引き戻された。人は突然いなくなる。今となってはそれがこの世の中で珍しいことではないものだと受け入れられる。でも当時はよく分からなかった。


だから時々自分自身が死ぬとどうなってしまうか思いを巡らせては一人悲しくなった。真っ暗闇の中に放り出されて無になる状態。子どもの想像力の範囲ではいつもそこまでで終わった。そうして少し寒気がして怖くなってはすぐ手元の漫画に目を落とすように日常に戻っていった。時が経つにつれ、このときの記憶は薄れていき、何事もなく生活はつづいていった。


やがていちじくの木は腐ってしまい、ほぼ上半分を切ることになった。それに私は実家を離れ、その木を見ることは今ではほとんど無い。だからスーパーでいちじくを見かけるとこのときのことを思い出す。