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大きな絵画が怖い。ジェットコースターが怖いのと同じように。

私は以前から、大きな絵画が苦手だ。自分の背丈を超える、大きなキャンバスが苦手だ。観るだけで辟易してしまうから、描こうだなんて思える訳がない。

逆に、手のひらに乗せたり両腕で抱えたりできる大きさの絵画を観るのは好きだ。もちろんこちらは自分で描いたりもする。

だから、私はよく個人経営の小さな画廊に出向いて、そのワンルーム程のスペースに飾られた小さな作品たちを、間近で、じっくりと鑑賞したりする。それがとても心地良いのだ。


今日、川村記念美術館を訪ねた。目的は、1950~60年代の抽象絵画を取り上げた企画展と、それと連携した常設展の鑑賞。

企画展に並ぶ作品は、ほとんどが2mを超える大きな抽象絵画だった。
うっ、と身構えてしまったものの、このような作品が好きな知り合いに紹介されてやって来た手前、引き返すのももったいない。
そこで、私はこれらの作品と自分の感覚との折り合いをつけるために、思索に耽ることになった。


1,感覚の整理

大きな絵画に対して私が持っている感覚は、簡単に言えば「手に負えない」といったところだ。

まず、「情報量が多すぎる」。通常作品を鑑賞するときと同じ距離のところ立ってみると、大抵作品全体を視界に入れることができない。その作品の持つ質感や色彩の情報が、視界すべてを伝ってなだれ込んでくる。
昨年、東京都美術館のゴッホ展で「夜のプロヴァンスの田舎道」を鑑賞した。両手で楽々抱えられるほどの大きさだったにも関わらず、私はその絵から夜の冷たい風を感じ、自分の周囲を取り囲むように聞こえてくる木々のざわめきを感じた。それなのに、さらに画面が大きくなったらどうなってしまうだろう。
そこで、作品の一部を切り取ることで情報量を制限しよう、などと考えてもう少し近づいてみるとする。すると、先ほどの距離では見えなかったもっと細かい筆跡や凹凸、絵の具のハネやシミ、さらにはキャンバスの布地の質感までが見えてしまい、余計に目が回りそうになるだけだ。

次に、そこに「現実感がない」。写実的な絵かどうかという話ではなく、この物体がどのように、どれだけの時間をかけて作られたのか想像することができない。確かに、素材は見慣れたキャンバスや絵の具のはずだ。道具もそれほど変わらないだろう。ただそれが、とてつもなく大きいだけ。でもそれを作っているのは巨人ではなく、ありふれた人間。私には、全く想像がつかない。


これらの感覚は、私がジェットコースター(広義に言えば、スリルライド全般)を苦手としていることに似ているのかもしれない。そう思い立ち、私の趣味の一つであるディズニーパークを思い出しながら考えてみることにした。

私がジェットコースターを苦手としているのは、何よりも、心身が過剰に疲れるからだ。急上昇・急降下・急旋回の動きを体が受け止めきれず、どうしようもないまま振り回されるだけ。力の入れ方も息の仕方も分からずただ耐えるだけの時間は、安全に設計されているということが何の気休めにもならないほどに、恐怖で満たされている。ジェットコースターが好きな人々はこの感覚を楽しんでいるのだろうが、私には到底無理だ。
つまり、心身に対する「情報量が多すぎる」ことが苦手の大きな理由と言える。

さらに、自分が今物理的にどのような状態になっているのか分からない造りのジェットコースターはもっとひどい。レールが見えない暗がりを進むものや、フライトシミュレーター型のライドのように音や映像で動きを大きく錯覚させるものがこれに当たる。自分のよく知る安全な現実と地続きになっているということが確かめられず、必要以上の恐怖を抱えるはめになる。
つまり、「現実感がない」ことも苦手の理由になる。

ジェットコースターも、私にとって「手に負えない」ものの代表格なのだ。


2,対策

しかし、私はこれでも以前よりはジェットコースターに慣れてきている。いろいろなアトラクションを試すうちに、どのような要素が私にとって耐えがたく、どのような要素なら対策が立てられるか、を考えられるようになってきた。
では、どのように対策すれば大きな絵画と向き合えるようになるのだろうか。


まず、「情報量が多すぎる」ことについて。
最近気づいたのだが、スリルライドが下り坂を落ちるときには、全身に力を入れて腰を座席に押さえつけるよりも、少し足の方に重心を動かして腰にかかる圧力を減らしておく方が良いようだ。落ちる感覚が軽減される上、疲れにも繋がりにくい。押してダメなら引いてみろ、ということ。

考えてみれば簡単だ。情報量を減らすためには、遠くから見れば良い。
一通り展示をまわり終わってからふとそれに気付き、実践してみた。仕切りも何もないだだっ広い展示室の角に立って、対角線の壁にかかった絵画を見る。すると、見かけ上の大きさがいつも見ている小さい絵画と同じくらいになる。こうなってしまえば、まずはいつも通りに全体の雰囲気を眺め、必要に応じて細部を見るために近づけば良い。この方法で展示室をもう一巡してみると、はじめよりも落ち着いて、じっくりと絵画を鑑賞することができた。
(ただ、この方法を試すにはそれ相応のスペースが必要だ。かつ、室内の人がまばらな時でないとうまくいかない。)


次に、「現実感がない」ことについて。
スリルライドの恐怖を減らすために手っ取り早いのは、その仕組みを知ってしまうことだ。急加速の演出のためにライドを後ろに傾けていること、スピード感の演出のために上下左右の振動をわざと増やしていることなどを知ると、自分に与えられた恐怖の原因が分かり、対策も見えてくる。ライド動画を見てコースや動きを知っておくことも安心に繋がる。

となると、やはり絵画がどうやって描かれているのか身をもって体験するのが手っ取り早いだろう。そのためになら一枚描いてみても良い……と思うが、手間も時間もそれなりにかかるのが現状だ。ならばせめて、誰かが大きな絵画を制作しているところを見学し、その作者に考えを聞いてみると良いのではないか。まずは、今回の企画展を私に紹介した知人と話し合ってみたい。


最後に、もう一つ視点を付け足しておきたい。「物語」についてだ。
ディズニーパークのアトラクションは、ほとんどにストーリーを感じさせる仕掛けが施されている。例えば、相棒が運転するジープの助手席に乗って荒道を駆け抜ける、というロールプレイをした方が、ただ恐怖を煽る動きをするだけの無機質なマシンに乗っていると考えるより遥かに楽しい。それだけでなく、アトラクションの制作過程や変遷を知っておくと、作者の存在がさらなる温もりとなる。

やはり絵画も同じだ。どんな人間が、何について、何のために、どんな思いを込めて描いた絵なのか。それを知った上で鑑賞することは、鑑賞者の感性や考察を否定することには全くならない。作品の向こうに人間がいることを切に意識すれば、作品自体にも更なる温もりと価値が感じられるだろう。



私は自分の感情に正直に生きがちな人間だと思う。それには勿論、良い面も悪い面もある。でも、私は自分のこの性質をこよなく愛している。
好きにも嫌いにも、何かしらの理由があるはずだ。その理由を何とか解明しようと考えているうちに、いくつもの疑問が湧いてくる。そこに現時点で最良の答えを出してみる。そういった営みを大切にしたい。
成長とは、人格の上書きではない。少しずつ真新しい枝葉を増やしながらも、地中にはしっかりと根が張っていなければいけない。

この頃脳内で渋滞していたいろいろな考えのうちのいくつかが、この美術館訪問でまとまってきたように思える。そのしあわせな新芽を見失わないように、ここに書き記したまでだ。


(見出し画像は、今回の企画展のチラシと、ミュージアムショップで買ったお土産。)


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