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よんで、かいて、うたい続ける人

自らの内へおはいりなさい。あなたが書かずにはいられない根拠を深くさぐって下さい。それがあなたの心の最も深い所に根を張ってどうかをしらべてごらんなさい。もしあなたが書くことを止められたら、死ななければならないかどうか、自分自身に告白して下さい。何よりもまず、あなたの夜の最もしずかな時刻に、自分自身に尋ねてごらんなさい。私は書かなければならないかと。・・・

「若き詩人への手紙」リルケ、高安国世 訳(引用者注:傍点略)

最近、ものすごい勢いで本を読んでいる。
昨年の十一月頃、バイト代がわりに手に入れた図書カードで本を買ったのがはじまりだった。それから半年で、十五冊以上読んだらしい。世間の読書家と比べれば大したことはないかもしれないが、私の人生の上ではなかなかの勢いだ。

文庫も新書も単行本も読んできた。今は興味を持っている内容が大きく二つほどあるので、それぞれの枝葉を広げていくように本を渡り歩いている。一日で読み終わってしまうものもあれば、二~三週間めいっぱい使っても理解しきれないようなものもある。

読みたい本をノートにリストアップしておき、読み終わったら覚えておきたい要点をまとめて書く。併せて感想を身内のDiscordサーバーに投げ、新たに読みたくなった本をリストに追加する。
このサイクルが身についてきた。

本を読んでいるときには大抵、頭の中で言葉が音読される感覚がある。
同じ感覚は文章を書いている時にもあるし、それが私がよく言う「詩の口当たり」、声に出した時の心地よさを重視する傾向に繋がっているような気もする。
それに、一人で黙って考え事をしているような時でも、それは頭の中でひたすら繰り広げられるひとりごとの形態をとっているように思う。ひとりごとが膨らんでくると、書かなければ、という衝動に駆られる。

文章を書きたい、という衝動は、案外万人のものではないらしい。特にまとまった量のものとなれば。私はそんな衝動を持つ人に出会うと、どうしてこの人は文章を書きたがるのだろう、と考えてしまう。そこには人柄があり、その人の歴史があり、思いがあるのだから。
(併せて私自身へ忠告する、その興味は行き過ぎると本人に対する過剰な詮索となりかねない。作品は人間のある一面にすぎない。)

「本を読むことはその筆者と時空を超えて対話することだ」、とよく言う。
そうであるなら、私は未来の自分が今の自分と対話する機会を作るために、文章を書くのだと思う。

自分という存在は刻一刻と移り変わっていき、頭の中を絶えず流れていく文章はその尻尾を捕まえるだけで一苦労だ。そこには論理的に補完可能なひとすじの流れもあれば、恐らくそれよりずっとたくさん、瞬間的な感覚と感情が呼び覚ました言葉の泡がある。
私はそれを、折に触れて形に残そうとする。エッセーで、小説で、短歌で、演奏で、イラストで、もっととりとめもないメモや短いポストで。

記憶が薄れていくことを、自覚よりずっと恐れているのかもしれない。あたたかい過去の、歓びや驚きやどうしようもない愛おしさが、現在という地点から否応なしに離れていくのが、怖くて仕方ないのかもしれない。
かつて手の中にあった大事なものがなくなってしまうことが、かつて目の前にいた大切な人がいなくなってしまうことが、寂しすぎるのかもしれない。
それを少しでも紛らわすために、私はこうして文章を書く。

書くことは、私の表現活動のひとつだ。そして私は、自分の表現活動を、「うた」というひとことに内包させることがある。恥ずかし気もない、私は私自身の本質を"詩人"と定めている。それが定義であるのか定理であるのか、分かることはないにせよ。

今の私は、書くために読んでいるわけではない。でも、読むからには書かずにはいられない。昔からそうだった。誰かの文章を読んで、自分の文章を書く。その文章は、やがて未来の私が読むこととなる。


私はこれからも、詩人でありつづけることができるのだろうか。

・・・そしてもしこの答えが肯定的であるならば、もしあなたが力強い単純な一語、「私は書かなければならぬ」をもって、あの真剣な問いに答えることができるならば、そのときはあなたの生涯をこの必然に従って打ちたててください。あなたの生涯は、どんなに無関係に無意味に見える寸秒に至るまで、すべてこの衝迫の表徴となり証明とならなければなりません。

「若き詩人への手紙」リルケ、高安国世 訳

(見出し画像は、以前行った上野の喫茶店。)

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