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詩的掌編「革の鞄」

私は夢の中で目を覚ました。そのとき私は、海辺に野宿する旅人だった。
眠っていたテントの一角に、何か不思議なかたまりが置かれていた。近づいてよく見ると、それは革の鞄のようなものだった。ひどく古びたその鞄は、私のほかの持ち物とは全く違う深い青色をしていた。
(これは私のものではない。本当の持ち主を探して、返さなければ)
当たり前のことのように、そう思った。
私は身支度をして、海沿いの道を歩きだした。


少し行くと、石壁の都市に辿り着いた。町の建物はどれも細やかな彫刻に飾られていて、朝霧の中で真っ白に輝いていた。
その壁を熱心に描いている女性を見つけて、私は声をかけた。
「すみません。この鞄の持ち主をご存じですか」
女性は丸眼鏡をきりりとかけ直し、革の鞄をじっくり観察した。
「ははあ、これはなかなか古い代物だ。頑丈なベルトがついているところを見るに、きっと背中に背負って使われていたのだろう。しかし、残念だが、持ち主に心当たりは無いな」
私は女性に礼を言って、また海沿いの道を歩いていった。喉が渇いてきたので、途中で林に入って小川の水を飲んだ。


少し行くと、今度は煉瓦造りの町に辿り着いた。赤茶色のブロックを敷き詰めた道は少しでこぼこしていて、所々の隙間から生えた青草が真昼の光をいっぱいに受けていた。
街角のベンチで本を読んでいる青年を見つけて、私は声をかけた。
「すみません。この鞄の持ち主をご存じですか」
青年は少し驚いたように顔を上げると、革の鞄を不思議そうに見つめた。
「鞄にしては、けっこう小さいですね。もしかしたら、幼い子供のために作られたものなのかも知れません。ですが、ごめんなさい、誰のものかは僕も知りません」
私は青年に礼を言って、また海沿いの道を歩いていった。昼食が欲しくなって、道沿いの小さな商店で買ったサンドイッチを食べた。


少し行くと、やがて丸太小屋の村に辿り着いた。村のそばには草原が広がっていて、黄色や桃色の花々があたたかな午後の風に揺られていた。
木陰で草笛を吹いている少女を見つけて、私は声をかけた。
「すみません。この鞄の持ち主をご存じですか」
少女はぴょこんと立ち上がると、革の鞄を興味津々で眺めた。
「このかばん、お弁当や水筒を入れるのにぴったりだね。それでピクニックに行ったら楽しいだろうなぁ。でも、誰のかばんかは分かんないや」
私は少女に礼を言って、また海沿いの道を歩いていった。足が疲れてしまい、海辺の石に座ってぼうっと休憩した。


少し行くと、とうとう森の奥に日が沈みはじめた。木々の梢はみるみるうちに黒くなり、夕暮れを告げる鳥の鳴き声がどこからともなくこだましていった。
そして、私は驚いた。小道の先の開けた場所に、朝目覚めたはずのテントが張ってあったのだ。
私は思いを巡らせた。一日かけて歩いてきた道は、いつも左側に海があり、右側に山があった。水面に見えていたのは寄せては返す波ではなく、静かなさざ波ばかりだった。肌に感じていたのは潮風ではなく、ただただ清らかなそよ風ばかりだった……。
私はもう一度、海沿いの道へ出た。夕日の最後のひとすじに照らされて、水面の遠い向こう側に、昼間に巡ってきた都市や町や村が、確かに佇んでいた。
(あぁ、ここは湖だったのか。私は一日かけて、大きな湖のまわりを一周してきたのだ。そしてとうとう、この鞄の持ち主を見つけることはできなかった……)
私は鞄を胸に押し当てた。知らない誰かから、とても大切なものを奪いとってしまったような気がして、あまりにもつらかった。


辺りはすっかり暗くなった。月明かりの下に、湖へ突き出た小さな岬が見えた。その先に誰かが佇んでいるように感じて、私はそちらへ歩いていった。
岬の先には、幼い子供が座っていた。私が声をかけようとしたとき、その子供がすっとこちらを見た。私は、その悲しげな顔を、確かに知っていた。
(君は……昔の、幼い頃の私だ)
私は目の前の子供に歩み寄った。そして、あの革の鞄を差し出した。
「この鞄、君のでしょう?」
子供は鞄を一目見るなり、丸い瞳を見開いた。そして鞄に両手を伸ばしたかと思うと、そのまま私の胸元へぎゅっと抱きついた。
「遅くなってごめんね。私のこと、探していたの?」
顔を埋めたまま、こくりと頷く。
「そうか、じゃあ随分歩いただろう」
今度は黙って首を振る。
「えぇ?もしかして、ずっとここにいたのかい」
また、こくりと頷く。
「そうだったのか……。とにかく、会えてよかった。君の大事な鞄を、ちゃんと返せて良かったよ」
私が笑うと、子供もようやくこちらを向いて笑顔を見せた。私はその頭をそっと撫でた。
私の手から鞄を受け取った子供は、それをしっかりと背中に背負った。それから私の片手を取り、岬の先の方へと連れて行った。そして、凪いだ湖面を覗き、綺麗に映る二人の影を指差した。
そのとき、私は気付いた。私も、隣にいる幼い私と同じように、革の鞄を背負っていた。それは私の背中にぴったりと寄り添い、幸せに満ちた夜空のような深い青色をしていた。


(見出し画像は、ムーミンバレーパークを写ルンですで撮った写真。私にとって、旅人といえばスナフキンなのでね)

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