「天国大魔境」第6話演出解説
今期も、本当に豊作ですなあ……。
どの作品が「覇権」だ「優勝」だと喧しいですが、どれもこれも素晴らしくて、もはや見る時間が足りないくらいですよ。
ええ、アニメの話です。
そんな中、今回どうしても触れておかなければならないのが『天国大魔境』の第6話。
第1話からむちゃくちゃなおもしろさでひきつけられたわけですが、第6話はまた一段とおもしろい。そんなわけで第6話の演出解説をしてみたいと思います。
ちなみに原作未読、この先の展開もまったくわかりません。
まだ観ていないという方のために簡単にご紹介しておくと、この話、近代文明崩壊後の日本を舞台とした少年と少女(少女?)の冒険物語です。
文明崩壊にいたった原因は作中で「大災害」と呼ばれていますが、それがどんなものだったのかは不明。局地的なものだったのか、それとも世界規模のものだったのか。他の地域や国からの救援がなさそうなところを見ると、世界的なものだったと思われます。
また、文明崩壊といっても太陽光発電や一部の車が動いている描写もあり、まさしく大災害のあと、といった感じ。
そこである使命を帯びたマルと呼ばれる少年が、キリコという少女にボディガードをしてもらいながら「天国」という場所を探して旅をする、というお話です。
お話ですとはいいながらこの本筋に様々な要素が絡んできますので、謎は深まるばかりです。
庵野秀明監督が『シン・エヴァンゲリオン』を作っているときに、「もう観客は謎だらけのストーリーを求めていない」と発言されていましたが、こちらは謎だらけ。ただ庵野監督の発言が、「謎が謎のまま視聴者にぶん投げられる」という旧エヴァ的なことを指しているのであれば、少し違ってくるかも知れません。
たしかに『天国大魔境』は謎はありながらも、作中で少しずつ解明されていきそうです。
アニメーション製作はProduction I.G。ここは『攻殻機動隊』とか『劇場版・旧エヴァ』(GAINAXと共同)とか、近年では『PSYCHO-PASS』なんかを作ってるところといえば、「おお!」となる人も多いのではないでしょうか。
本当ならすぐに本編の解説に入りたいところですが、オープニングに触れないわけにはいきません。オープニングは2話目からつきましたが、ここ見るだけでも動きがすごいです。
リアルな頭身や絵ではないのに、慣性、重心、反動などで人物が見事に質量を持った存在に感じられます。これ、実写映像を元に書き起こすロトスコープじゃないのかな?そうじゃないとしたらなんという画力。
特にキルコが頭を前に倒して走るシーンなんて、見ているだけで自分の重心が前に持っていかれるよう。
子供のころ、転ぶのをおそれずに上体を前に倒してむやみに走りませんでした?あの感覚が体内によみがえります。
きっと頭のおかしな人が描いてるんだろうなあ、と思ったらオープニングはWeilin Zhangさんの手によるものでした。
「頭がおかしい」なんていってすみませんでした。「頭がおかしい」んじゃなくて、「常軌を逸している」と書くべきでした。
この方、十代で『BORUTO』のアクションシーン描いたり、その後は『キャロル&チューズデイ』のオープニングの一部をやってる人なんですね。
I was wrong to have said Weilin Zhang was "crazy". He is actually "insane".
オープニングで何度か複雑に絡まりあった光の網みたいなものが出てきますが、あれなんでしょうね?キラキラしていて、それでいて粘つくような映像に、美しいだけでなく不穏な要素も感じます。
それから一瞬だけ、「地獄へようこそ!」という文字とともにVサインをした人の手が17本映るのですが、あれなんでしょうね?一人だけグルグルと指紋が描かれています。
「施設」にいる子供たちの手ではないかと思うのですが、「施設」に何人子供がいるかは明示されていないので、この辺も謎ですね。右上には猫の肉球も描かれていますが。
さて、本編。
マルとキルコが、二人よりも年下の少女トトリに道をたずねています。この少女、「施設」にいたアンズという少女と同じ声優さんで、顔もそっくりです。どういうことかはまだわかりません。
作中触れられませんが、トトリは首からトランシーバーを下げています。つまり連絡をとる相手がいるということ。彼女が一人で生きているのではないことがわかります。
彼女はホテル業を営んでいるのですが、その看板はシーツに「ほてる ふとんがせいけつ きれい」と書いてあるもの。
カタカナも知らなければ、字も稚拙。
災害後の世界で教育レベルが低いことがうかがえます、これは彼女に限ったことではないのかも知れません。またこれはアニメでの演出というより、原作に忠実にということだと思います。
ちなみにこのときに限りませんが、背景美術がすごいですね。
このときは真ん中の看板に目がいきますが、左右のビル、絡まるツタ、傷んだ標識など、リアルなだけではなく、視聴者にこの作品の世界観をビシビシ伝えてきます。
道案内をしてもらって歩き出そうとする二人。トトリとの位置関係が変わって、光源との相対的な位置も変わります。
さっきまで光があたっていたトトリの顔が陰になります。ホテルに泊まることを断られたトトリの落胆を表しますね。
それでも荷物を預かっていてもらうことにするのですが、このときうれしいからといって急に顔に光があたったりしたら変ですよね。だから顔は陰のままで、トトリの表情が明るくなるのと同時に、髪の毛が少し広がります。こうすると心が晴れるような感じがしますよね。
トトリの道案内にしたがって二人は水場にやって来ますが、このとき見上げた高架の絵が背景美術の特徴としてわかりやすいです。『100%安全水』というサブタイトルの直後のカットです。
ザラついてるんですよ、画面が。空の部分までザラザラしてます。
古いフィルム写真みたいに、ノイズグレインがたっぷり乗ってます。
こういうの、われわれは何の気なしに見ますけど、やっぱり感じてはいるんですよね。こうやってザラザラした表現をすることで、この世界が荒廃していること、埃まみれで、いわゆる清潔な世界ではないことが伝わってきます。
続いてマルだけが高架の影の中にいて、「ここじゃない?地下の入口って」
そして今度は二人揃って影の中、さらに地下へと続く一段と暗い通路の中。だんだんと不安と緊張感が増します。
懐中電灯で照らすと、そこには傷を負った人が倒れています。この人、第5話でマルに絡んできた自警団の人ですね。
ちなみにキルコの懐中電灯の持ち方、最近はだいぶ一般化しましたが、軍や警察の人の持ち方です。
発光部分が小指の側に来るように持って、肩の辺りに構えるという、アレです。これは本来、単一電池を何本も入れる長くて重い懐中電灯を持つときの方法で、腕を伸ばせばその勢いで相手を殴れるという即応体勢です。
作中のように短い懐中電灯では、目の高さと同じところから照らせるということ以外あまり意味はありませんが。
倒れている人はバケモノに襲われたようで、二人もこのバケモノに追われて水場を飛び出します。
本来ならバケモノに追われているのですから緊迫したシーンなのですが、マルの顔はコミカルにデフォルメされています。
そうです、このことから危険なシーンではありながらも、それが本当の意味で差し迫ったものではないことがわかるのです。
もちろん二人はこのアニメの主人公なので実際に死んでしまうことはないはずなのですが、それでもここはリアルな危険や緊迫感に重きを置いたシーンではないのです。
その証拠に、このあとの二人のやりとりは非常にコミカルです。
ですからここは、危険なシチュエーションに置かれた二人のやりとりを楽しむ場面なんですね。
バケモノを撃退するためにキルコは銃からビームを発射して橋脚を撃ち抜くのですが、ここも抜かりありません。
ほんの一瞬のシーンなのですが、ちゃんとレーザーが橋脚を貫いている過程が描かれています。
「撃ちました、次の瞬間には穴が空いています」ではなく、ビームがコンクリートを穿孔する様子が描かれています。速すぎて見えないよ?
橋脚が倒れる衝撃で気を失うバケモノ。
「うまくいった」と得意顔のキルコをとらえるカメラのアングルはアオリ、下から見上げる映像です。
見上げる映像はその対象が強い、上位、優位であることを表します。バケモノを倒したキルコの強さを示します。
倒したバケモノにとどめを刺そうとするマル。
この世界にはバケモノがいて、マルはバケモノの身体に触れることで絶命させる特殊な力を持っているのです。
「フェイタルダイブ!」
死ぬほどだっせえ技名を叫んでバケモノの胸に手のひらを押しあてるマル。
……。
…………。
………………。
なにも起こりません……。
それもそのはず、このバケモノは本物の「バケモノ」ではなく、体毛の抜けかけた野生の熊だったのです。
得意満面の表情でとどめを刺そうとするマルの滑稽さを強調するためのだっせえ技名、それを聞いて引いているキルコの表情、追い打ちをかけるようにかかるエコーは小さくなるどころがボリュームが上がります。
それらが相まって、視聴者は「なにやってんの、コイツら」と思います。
その後ふたたび逃げ惑う二人ですが、次のシーンは声だけで、二人の姿は描かれていません。
草のあいだから見える高架が描かれているだけで、パニックになって逃げ惑う二人の姿も、追いかける熊の姿もないのです。
今回の演出の一番すごいところはここじゃないでしょうかね。
ここまでで、絵として描かなくても二人がどんなふうに逃げてるかわかるでしょ、ということです。
アニメは視聴者が頭の中で補って完成するものです。
これはアニメに限らないかも知れません。全部を描かなくても、あるいはむしろ描かないことでよりおもしろくなることがあります。
たとえば実写でも、恋人同士が二人きりの部屋でベッドに並んで座り、パチンと明かりを消す。そのあとを事細かに映すより、よっぽどロマンチックな余韻が生まれたりするじゃないですか。
アニメは特にその要素が強いと思います。
テレビは基本的に1秒間に30コマ、映画は24コマの静止画を連続的に表示することで動いているように見せています。アニメでそれをやるのはあまりに大変なので、コマ数を秒間8コマくらいに落とすことが多いです。
これをリミテッドアニメーションといいますが、われわれはこれを見て「普通に」動いていると思いますよね。これは目の錯覚を利用しているということもありますが、脳内で補完しているという部分も大きいです。
1秒間に24〜12コマ描くアニメをフルアニメーションといいますが、コマ数が多ければ多いほどいいというわけではありません。
現在ではモニターディスプレイの性能が上がって、秒間60コマとか120コマとかを表示できるものがあって、そういうモニターの中には描かれていないコマを予測して描き、表示してくれるものもあります。
しかしこれをやり過ぎるとかえって不自然になったり気持ち悪く感じるということもあるようです。
閑話休題。
第6話のこのシーンでは逃げ惑う二人を描かなくても視聴者が想像してくれる、その方がいいシーンになるという判断がなされたと思います。
ここまでの二人の動き、仕草、表情、これらが十分視聴者に伝わっているという確信、それから視聴者への信頼がないとできないです。
でも、想像ついちゃうでしょ、慌てふためく二人の様子。
涙目で、でかい口開けて、罵り合いながら我先に逃げる二人が。
逃げた先は崩れかけた橋脚の上。
キルコの視線は下をうろつく熊から、自分が必死に登ってきた壊れかけの非常用梯子へ。
「よく登れたな、僕……」というセリフにあわせてカメラが橋脚を下から上にパン(垂直にパンすることをチルトともいいますが)。
我を忘れてすごい高さまで登ってきたことがわかります。その証拠に、このあと「降りられない」と告白するシーンもありますね。後先考えてる余裕はなかったんです。
「熊じゃねーか!熊!」と二人が声を合わせるところから、またコミカルさを強調したシーンが続きます。
これらのシーンにつなげるためにも、熊とのチェイスシーンをリアルな重いものにはしていないんですね。
だってこのあと、マルはオッパイのために命をかけるんですよ?そんなの重くやったら悲壮感が漂いすぎてかわいそうになっちゃうでしょ。ていうか、そんな描き方したら死亡フラグにしかならないでしょ。
橋脚をも溶かす銃の電池を落としてしまうキルコ。
「とってきたらオッパイ触らせてやる」
いい終わるより先に飛び降りるマル。電池を拾い上げて、いい男の顔で振り返る。
こんなシーン、コミカルにやらなかったら普通に変態ですよ。コミカルにやっても変態ですが。
銃を渡して「降りられないから君が倒してきてくれ」と宣うキルコ。
作戦を説明するその背景はまるでファミコンのようないわゆる8ビット画。これもシーンを軽くしていますね。
繰り返し、真剣な戦闘ではないということを示します。
「おねえちゃん(マルはキルコをこう呼びます)じゃないんだから、そんなことできるわけない」とマルは断ります。そして「僕(キルコは自分をこう呼びます)は役に立ってる?」と問いかけるキルコに対して、「あたりまえだ」とこともなげに答えるマル。
自分が役に立っていることが、キルコの記憶を呼び起こします。
かつて誰の役にも立つことが出来ず、大切なものを失ってしまったキルコ。そのときの自分のセリフ、いわれたセリフがよみがえります。
「ロビンの役に立ちたいんだ」
「遊びでやってんじゃねえ!」
「ケンカは相手しか見えなくなった奴が負ける」
「危ねえから来んなっつっただろう!」
「僕が追い払う、僕がやるんだ!」
ここ、音響的にも細かいことをやってる気がします。
先の4つのセリフは少し左から聞こえるんですが、最後のセリフ、「僕が追い払う、僕がやるんだ!」だけ真ん中に定位してますね。
かつての自分の言葉が、もう一度はっきりと、自分の中で焦点が合う。もう一度、誰かの役に立つという意志が明確になる。
そんな演出ではないかと思います。
それ受けて、キルコの顔が引きしまり、さっきまでのデフォルメ気味だった絵がこの作品の中でのリアルより、シリアス寄りの絵になります。
ここからは熊を退治するまで、コミカル要素ありません。真剣な戦いになったからです。
自分の命をかけてマルを守ろうとするキリコ。さっきまでのコミカル要素を排することで、死ぬかも知れない、リアルな危険が身に迫っていると感じさせる、落差の演出です。
熊を倒してホテルに戻ると、真剣なトーンで「約束通り、オッパイを触らせろ」とマルは迫ります。
地下のシーンでも熊との対決シーンでも使われていなかったような、ホラー映画じみた効果音が使われる中、「なにか忘れてないか、おねえちゃん」と立ち上がるマル。
これが逆にコミカルに見えてしまうのは、声優さんの演技があるのはもちろんですが、「おねえちゃん」「オッパイ」という幼く響く単語、それから命をかけた代償がオッパイを触ることというあまりにも低俗で下らない内容であること、それを真剣に求めるマルということからです。
いや、たぶん15歳のマルにとっては一大事なのでしょうが。
騒ぎを聞きつけたトトリがやって来ますが、このとき一瞬だけ映る懐中電灯。彼女は普通の持ち方、発光部分が親指側に来る持ち方をしています。照らすのも腰のあたりの高さから。
こういうところにキルコとの素性の違いが表れていますね。
自分の部屋に連れて行かれたマルは、成り行きで裸のトトリを組み伏せることになってしまいます。
「おねえちゃん!ちょっと来てくれ!」
自分で呼んだとはいえ、キルコにその様子を見られ、絶望するマル。
ここでいきなりナレーションが入ります。
「あらゆる状況が、誤解を解くことの困難さを物語っていることに気づいたマルは、絶望のあまり目の前がまっ暗になったという」
いきなりですからね。まるでドキュメンタリーですよ。マルという男の子の人生を描くドキュメンタリー。
こういうのを放り込んでくるのもおもしろいですよね。
翌朝、トトリから昨日マルたちが助けた人が命を落としたことを聞かされます。
あの人はグループのボスだった人で、トトリにとっては親代わりといえる存在だったようです。
このときのトトリはこれまで頭につけていたバンダナをつけておらず、髪もボサボサです。もしかしたら朝早いせいかもしれませんが、おそらくはボスが亡くなったことにショックを受けているからでしょう。
このときのトトリはこれまでより幼い顔で描かれているようにも見えます。
「あんな奴でも、誰かの大事な人だったんだな」
荒れ果てた大通りを歩くマルは、失った前歯を触りながらいいます。この歯は、第5話でそのボスとケンカをして折られたところ。
『天国大魔境』は、失ったモノ、失ったヒトの物語、喪失の物語なのではないかと思います。
第5話で、マルがいなくなったと思ったキルコがパニックを起こす描写もありましたしね。
大災害で、人類は文明の大半を失いました。それと同時に人命も失い、その人命は誰かにとって大切な人だったはず。
そして荒れ果てた世界の中で、中には人間性を失ってしまった人もいるでしょう。それでも、その人たちも仲間を作り、そこで生きていこうとする。
だから一方で、再生・回復の物語でもあるのかなと。
誰の役にも立たないと思っていたキルコが、マルと旅をすることで人の力になれることを再発見していくように。
今回はあえてもう一つの、もっと謎の多そうな「施設」についてはほとんど触れていません。
こちらについてはぜひ本編でごらんください。
この記事を読んで、「ああ、ポストアポカリプスの世界で少年少女ががんばる話か」と思った方、半分正解です。
ですが、このポストアポカリプスの世界に「施設」がどう絡んでくるのか、僕にもまったくわかりません。
わからないまま、楽しみにしています。
ちなみに、監督の森大貴さんは今回が初監督作品なんだそうで。
と思ったら、『86』とか、『ソードアートオンライン・オーディナルスケール』に携わっていた方なんですね。実績十分じゃないですか。
それからアクション監修に竹内哲也さんがいらっしゃるんですね。この方も『ソードアートオンライン』に関わっていたり、いろんな作品のアクションシーンを担当されてるすごい方です。
最近ではリコリス・リコイルにも参加されてましたね。
ここから先も楽しみです。
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