男尊女卑だった僕が、女性の人権問題に関心を持つようになるまで

自分が昔どんな人だったかというのは忘れやすいもので、僕も最近嫁に言われるまでは、自分が昔男尊女卑の価値観を持っていたのを忘れていました。「最近の若者は〜」というのも、自分の若い頃を忘れるから言えることなんでしょうか。

僕が女性の人権問題に関心を持つようになったのは最近のことで、今のところ、人生の大半は無意識にも女性を見下しながら生きてきました。ただ、当時の自分に女性を見下している自覚はなく、「男はこういうもの、女はこういうもの」という「事実」として受け入れていたように思います。今思えば、色々な人を苦しめる考え方です。

今の自分が完璧などというつもりはありませんが、少なくとも女性の人権問題を見ようとし、改善されるべきものとして捉えています。もし女性の人権問題について話すのが窮屈だと感じるなら、それはあなたが特権を持っているからです。自分に影響しないことなので、「窮屈だな」で済ませられているのです。そして差別問題の本質は、差別されている側を変えるのではなく、その特権をなくすことにあります。

この記事では、僕の男女に対する価値観がどのようにして作られていったのか、そして変わっていったのかを書きます。

保育園

両親共働きだったのもあってか、保育園に通っていました。

このときは仮面ライダー、ウルトラマン、アンパンマンが大好きでした。特に仮面ライダーは、よく変身のポーズを真似して遊んだりしていました。

保育園が大好きで、たまに(よく?)まだ帰りたくないとぐずっていたそうです。母が早く迎えにきた日は「もう迎えにきたの?」と機嫌が悪くなったり。その割には、友達と保育園から脱走して先生を困らせたりしていました。

とんねるずの「ガラガラヘビがやってくる」が好きだったり、カラオケでは母のリクエストでよく鈴木雅之の「恋人」を歌っていたのを覚えています。今でも昭和の曲が好きですが、母の影響もあるのかも。

小学校

物心ついたときから、父よりも母との距離が近かったです。

母は小学生の自分からみてもとても努力家で、自分の好きなことを仕事にし、誇りに持って働いているのが伝わってきました。

父の会社が何をやっているのかは知っていたのですが、父自身が具体的に何をしているかまでは知りませんでした。今でも知りません。

両親ともに帰りが遅かったので、鍵っ子でした。ただ、隣の家と家族ぐるみで仲がよかったので、学校から帰ってきたらすぐに隣の家にいって遊んでいました。そのまま夕食をご馳走になることも多々。夜になると母と一緒にお邪魔して、みんなで映画を見たり。

隣の家には僕より5〜6歳年上のお兄ちゃんとお姉ちゃんがいたので、ほぼ毎日一緒に遊んでいました。おじちゃんとおばちゃんも、とてもよく世話を見てくれました。おばちゃんに至っては、自分の子供のイベント事(卒業式など)では泣かないのに、僕のイベントではよく泣いて感動してくれるほどです。

一人っ子で鍵っ子なのに寂しい思い出がないのはこの家族のお陰なので、感謝しかありません。また、「この人の子供なら面倒みてもいい」と思わせてくれた母の人柄にも感謝です。

低学年か中学年のころ、ばあちゃんにスーパーファミコンを買ってもらいました。同じ頃におじさん(父の兄)から、もうやらなくなったゲームソフトを数十個もらったので、飽きずにゲームをしていました。ただ両親の方針で、ゲーム機を家に持って帰ってはダメだったので、自分のゲーム機で遊べるのは年に数回里帰りしたときだけでした(後に我慢できず、勝手に家に持って帰ることになる)。

もらったゲームの中でも特に覚えているのは「スーパートロールアイランド」と「ファイナルファンタジー5」です。

「スーパートロールアイランド」は子供ながらに不気味だと感じていましたが、難しいアクションにはまっていったのを覚えています。全クリはしていません。

「ファイナルファンタジー5」にはおじさんのセーブデータが残っていて、その主人公におじさんの名前が付けられていたので、「このゲームの主人公はおじさんと同じ名前なんだ」と勘違いして、自分も主人公におじさんの名前を付けて遊んでいました。全クリはしていません。

特にファイナルファンタジー5に至っては、その後の僕の価値観や、音楽の趣味に影響を与えた作品でした。主人公の一人が男かと思っていたら実は女だった、という衝撃は今でも覚えています。「女なのにかっこいい!」と(今の僕は「女なのに」という言葉が嫌いですが、当時の僕は素直にそう思いました)。このゲームの音楽も、今でもよく聴いています。大学に入ってからですが、全クリも果たしました。

恐らく中学年ぐらいのころから、薄々と両親の仲が悪いことに気付き始めました。僕にとっては、両親の仲が悪いのは当たり前になっていきました。喧嘩ばかりというよりかは、会話をしないような仲の悪さでした。

家族三人でテレビを見ていたとき、両親が何の嫌味もなく普通に会話したのをみて、「え、今二人で普通に会話した?業務連絡でもなく?」と、とても驚いたのを今でも覚えています。もし両親にこの話をすると「普段から普通に会話してたでしょ!」と言われるかもしれませんが、少なくとも僕が覚えているのは、後にも先にもこのときだけです。

父に怒られたことは何度かありましたが、その中でも一度だけ明らかに本気で怒られたことがありました。それは僕が母のことを「クソババア」と言ったときです。その迫力のあまり「ああ、今まで怒ってたのは本気じゃなかったんだ」と感じました。僕はギャン泣きしながらも、「人のためにこんなに怒れるのって何かいいなあ」とも思いました。

ちなみにですが、四年生のころ、その後高校卒業まで夢中になることになるスポーツを始めました。

中学校

この頃から、「男は男らしく、女は女らしく」という価値観が好きになってきました。スポーツの場でも「男らしさ=強さ」という「有害な男らしさ、toxic masculinity」に侵されていきましたし、「男らしい」と言われるのが嬉しくて、誇りに思っていました。

特に一昔前にスポーツをしていた人の中では、こういう価値観の中で育った人は多いと思います。ただそれはスポーツが悪いのではなく、文化や環境の問題だと思っています。特に言葉選びはとても大切だと思います。

度胸や根性の話をするときに(根性論がどうこうというのは置いといて)、「男だろ」だとか「男なら」という言葉を使うと、必然的に「男は根性がある」や「女は根性がない」という価値観が植え付けられていきます。また、「男らしさ」や「女らしさ」という言葉にも、「らしさ」という言葉からくる「男や女はこうあるべき」という価値観の押し付けが見えます。

恐らく僕の男尊女卑の価値観も、このような言葉選びの積み重ねからきているものだと思っています。そしてそれは、毎日身近で母の努力、根性、知性を見ていた僕の経験を上書きするほど強いものでした。

三年生のあるとき、母から「次のテスト、どの教科でもいいから100点取ったらパソコン買ってあげる」と言われ、必死になりました。

僕の作戦は、当時得意だった理科の勉強をし(というか理科だけの勉強をし)、理科で100点を取ることで、「どの教科でもいいから100点」の条件を満たすというものでした。

理科の先生にも事前に「次のテスト100点取るから!」と余裕ぶっこいで、見事に100点取りました。他の教科の得点は覚えていませんが、条件は満たしたのでパソコンは買ってもらえました。好きだったゲームを作りたく、色々なプログラミングの本を買ってゲーム開発にハマっていきました。

初めてある程度形になったゲームは「地中潜り屋さん」という、地面に開いた大穴にジェットパックを背負ってどんどん降りて(落ちて?)行き、壁にぶつかるまでにどれだけ潜れたかを競う一人用2Dゲームでした。母がたまに「地中もぐり屋さんやらせて」と遊んでくれるのがとても嬉しかったです。

そのゲームはもう名前を忘れたぐらいマイナーな言語で作ったのですが、プログラミングの基礎的な考え方はこのときに触れました。その後C++とDirectXを学んだのは覚えてますが、それで自分のゲームを作ったかどうかは覚えていません。

高校

高校は、ほぼ男子校状態のところに行きました。他の科には女子がいたのですが、僕は三年間クラスに女子がいたことがありませんでした。

ただ僕は青春をスポーツだけで満足することもなく、彼女が欲しくてナンパも何回かしました。必死でしたね。

このとき、人生で初めてスポーツチームのキャプテンを務めました。ただ内容は申し訳ないほどに酷いもので、未経験者が多いチームだったのですが、「たまたまコツを掴んだ人」に頼っていたので、それ以外の人は置いてきぼりになっていました。ただ、自分を育ててくれていたある監督は尊敬していたので(自分がキャプテンをしていたチームとは違うチームの監督)、その監督のようになりたいと思ってはいました。

このとき母に、何度か僕のキャプテンとしてのあり方を批判されました。特に覚えているのは「キャプテンなら自分が去ったあとのチームのことも考えなさい。あんたが卒業していなくなったあとでもチームとして成り立つように、下の人も育てなさい」と言われたことです。当時の僕は「そんなこと言われても」と思っていましたが、今になればとても重要なことだと思います。

プログラミングの方も趣味で続けていて、将来はゲーム会社でプログラマーをやりつつ、地元のスポーツチームのコーチでもできたらいいなあ、と思っていました。

どのタイミングでどのように言われたのか忘れましたが、母から「アメリカ留学はどうだ」という話をされ、英語赤点のくせにアメリカへ留学することを決めました。英語の先生に「人生を棒に振る」と言われたのは、今でも覚えています。当時は鼻で笑って気にしませんでしたが、今思えば子供にひどいこと言うなあ。

アメリカ留学の決め手になったのは、アメリカの大学では専攻を二つ持ってもいいということと、後になってから専攻を変えるのも簡単ということでした。つまり、まずはコンピューターサイエンス専攻で大学へ入り、あとで余裕が出来たらスポーツコーチ学も学ぶ、ということも簡易にできると思ったからです。

ただ僕がやっていたスポーツは、ここで一旦卒業することになります。小さいころから真剣にやっていたスポーツなので寂しい思いはありましたが、将来のことを考えたときにスポーツで飯を食っていくのは断然無理そうだったので、プログラマーという職に就くための勉強を優先しました。

大学

アメリカどころか海外も初めてだったので分からないことだらけでしたが、「まあ人が住んでるところだし」ぐらいの気持ちで渡米しました。英語が全然できなかったので、最初は語学留学から始めました。語学学校を卒業して大学に入るまで一年ほどかかりました。自分が日本でちゃんと英語を勉強していれば短縮できた期間なので、お金を出してくれた親には申し訳ありませんが、感謝しています。

当時の計画としては、アメリカでコンピューターサイエンスを勉強して、日本で就職するつもりだったので、あまりアメリカの文化などに思い入れはありませんでした。また学部について結論から言うと、最後までコンピュータサイエンス一択で、スポーツコーチ学を大学で学ぶことはありませんでした。

大学中も男女差別は変わらず、「男は働いてお金入れて、女は家で子供の面倒みるもの」と思っていました。実際に母がめちゃくちゃ働いて家にお金を入れていたので、どこからこの価値観がきたのかは未だに分かりません。恐らく「男らしさ」を追求した先に、それがあったのだと思います。パーティーなどでも女性は基本的に「華」として見ていたことも多々あり、今思えば気持ち悪いです。

そんな在学中に今の嫁と出会いました。「次に付き合う人は結婚を考えられる人にしよう」と思っていたころの出会いでした。「この人とずっと過ごしたいなあ」と思い、色々あって付き合うことに(文章では面倒なので今後も「嫁」と書きますが、結婚するのはもう少ししてからになります)。

ある日嫁と家でまったりしていると、母から電話がかかってきました。用件は両親の離婚のことでした。正直な感想は、特に悲しい気持ちはなく、「まあそうなるよね」というものでした。

「いつ離婚したの?」と聞くと「六ヶ月ぐらい前だったかなあ」と返ってきて、爆笑しました。なんか人生の重大なイベントを見逃した気持ちもありましたが、それよりも六ヶ月も自分の離婚を子供に伝えなかった両親の可笑しさが勝ちました。電話が終わったあと、嫁に両親が離婚したことを伝えると、「え、なんか空気感違うくない?大丈夫?」と困惑していたのを覚えています。まあそうなるよね。

この頃はゲーム開発者になりたいと思っていたので、ゲーム開発の授業を受けていました。その学期が終わったあと、ある企業から教授に「この授業で最優秀作品を作った生徒の中から、うちのインターンに興味がある生徒はいないか」と連絡があったそうで、それが回ってきました。

ゲームとは無関係な業界だったし、まだ自分の英語にそこまで自信もなかったので、応募するかどうか迷っていました。すると嫁が「何を迷うことがあるの?落とされても失うものないでしょ」と言われ、まあそうだな、と思いダメ元で応募したところ、三回の面接の後に受かりました。色々な運が重なって作られた機会でしたが、特に嫁が背中を押してくれたのは感謝しています。これがなかったら、自分の人生は大きく変わっていたかもしれません。

就職

結局そのインターンの延長線で、同じ企業に就職することになりました。インターンを始めてから、それまでインターネットやメディアなどで見ていた日本のソフトウェアエンジニアの職場環境と、実際のアメリカのソフトウェアエンジニアの待遇の違いを目の当たりにし、そのままアメリカで就職することに決めました。

家庭

その後嫁の大学卒業のタイミングで、結婚することに。

この頃の価値観は、「まあ女の人も働いててもいいんじゃない?」ぐらいのものでしたが、専業主婦は楽だろうな、とも思っていました。「子供ができたら世話をするのは女の人の仕事だよね」だとか「親父は普段黙ってて、たまに口出しするぐらいがいいんじゃない」とも思っていました。

後付けですが、この価値観に関しては、自分の両親を見てそう思ったのかもしれません。母親は自分の面倒をよく見てくれましたし、父親はたまに口出しするぐらいだったので。ただ、普段僕の面倒を見ていない父親の口出しは基本的に的外れで、実際両親の関係がうまくいってないのも見ていたので、なんでそれを引き継ごうと思っていたのかは謎です。

その後一人目が生まれて、二週間の育児休暇をもらいましたが、育児の大変さに圧倒されました。こんなに大変なことがあるのかと。「子供ができると、それまでの人生が全て夏休みだったことに気づく」という言葉を見ましたが、それも納得です。しかも、明らかに嫁の方が負担が大きい状態でこの大変さです。「親父はこうあるべき」なんて言ってる場合じゃない、という風に考えが変わっていきました。

二人目は思ったより楽でした。一人目の経験から覚悟ができていたのも大きいと思います。

三人目が生まれたときは三ヶ月の育児休暇を取れたので、その三ヶ月間は基本的に僕が家事を全てしていました。ここで専業主婦が楽なんて価値観は吹っ飛びました。

僕の場合、食事の用意が一番大変でした。飽きさせないように、栄養も考えて。朝食が終わったら昼食の用意、昼食が終わったら夕食の用意、夕食が終わったら明日の子供のお弁当の用意と、もう一日中食事の用意に追われている気分です。しかも僕の場合、嫁がその間に子供を見てくれていてこの大変さです。パートナーがいない人や、いても家事にも育児にも協力的でなかったら大変さは比じゃないだろうと思います。

それまでは食事中に「おいしい?」と聞いてくるのに対して、「黙って食ってるからおいしいに決まってんじゃん」と思っていましたが、何気ない「おいしい」や「ご飯ありがとう」という言葉がとても嬉しいものなんだと気付くこともできました。それからは自分も(基本的に...!)毎食「おいしい」や「ご飯ありがとう」と言うようになり、子供たちもそれを真似するようになりました。

様々な女性の体験談

その後、色々な業界の女性の体験談を読む機会が増えました。多くの体験談に共通して言えるのは、自分が生きてきて気にしたこともないようなことも、女性は気にして生きているということ、そしてそれは多くの場合周りの人の無意識な差別によって人工的に作られているということです。

例えば僕は、「男なのにエンジニアになりたいの?」とか「男だから出しゃばっちゃいけないよ」とか「男だからもっと愛嬌振る舞って」とか言われたことはありません。もし小さい頃からそのようなことを言われ続けていたら、そもそもソフトウェアエンジニアには興味も持たなかったかもしれませんし、もっと他人の顔色を伺って生きていただろうと思います(お前はもっと他人の顔色伺えという話は置いといて)。それこそ「女らしく」結婚して専業主婦になることを目指していたかもしれません。その道が良い、悪いという話ではなく、このような何気ない言葉も、人の人生を変えてしまう力があるということです。

また、男だからこういう場所に行くのが危ないとか、行ったら体目当てで女性が近づいてくるから気をつけなきゃいけないとか、それを追い払うのが面倒だとか、そういう経験もありません。

もちろん男性側も男性側で「男ならこうあるべき」と言われることはありますし、それはそれで問題なのですが、それは男性側が自分で作り出した問題であることがほとんどだと思います。全部という訳にはいきませんが、個人の考え方を変えるだけでどうにでもなる場合が多いです。

しかし女性差別の問題を解決するには、現状社会的に立場が上な男性側の改善が必要不可欠で、男性が無頓着なままだと、現状立場が下な女性が騒いで終わるだけになってしまいます。

男性の意識を変える一番効果的な方法は分かりませんが、少なくとも自分は女性の体験談を多く読むことで、自分の下記のような特権に気づくことができました(もっと沢山ありますが、ここでは自分が男だからある特権に限る)。

・ソフトウェアエンジニアを目指すことを疑問に思われなかった
・自分の気持ちを殺してでも他人の気持ちを優先しろという価値観を与えられなかった(愛嬌をふるまえ、笑顔でいろなど)ので、留学など人とは違ったことをするのに抵抗がなかったし、先生の言葉も鼻で笑えた
・十八歳で英語もできないのに一人でアメリカへ行くことを、両親はそこまで心配しなかった。少なくとも自分には見せなかった。自分も身の危険などは感じていなかった
・面接や仕事などで、見た目で極端に判断されることがなかった
・自分ではまだ気付いていない特権が、他にも沢山あるだろうと思っています

今日本のソフトウェアエンジニア業界では、下の記事から始まった、女性が自分がエンジニアになるまでの話を共有する流れがあります。男性にも女性にも、エンジニアにもそうでない人にもお勧めします。

その記事の最後には、この流れで共有された記事のまとめリンクもあるので、色々な方の体験談へ飛べるようにもなっています。女性は「自分だけじゃなかったんだ」と、男性は「女性ってこんなこと言われるんだ」または「あ、俺もこういうこと言ってるかも」と気付けることが多いと思います。

女性がどのような環境で育っているのかを聞くと、男女問題への見方も変わるかもしれません。

@wada_shogo

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