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読書の多様性について~親友に感謝したいこと

 わたしには唯一無二の親友が一人います。小学生からですから、かれこれ五〇年以上の付き合いになりますね。ただ共に過ごした時間はそれほど長くありません。社会人になってからわたしは東京が主戦場、彼は大阪。その間会ったのは二度ほどです。共に酒場をハシゴして語り合ったのはもう一〇年くらい前になります。
 スマホが世に出てからLINEで連絡をとることもありますが、年に一、二度、大事なときだけです。こう言うと薄い付き合いのように思えるでしょうが、真の友というものはそういうものではないでしょうか。
 ニーチェもこう言っています。

すでに信頼し合っているのならば、親密な感じに頼らないものだ。他人からすれば、むしろそっけないつきあいのように見える場合が多い。

人間的な、あまりに人間的な

 さて、本題ですが、彼とは趣味をほぼ同じくします。ギタリストですし、聴く音楽のジャンルもほぼ同じです。好きなミュージシャンもほぼ同じです。ただ読書の嗜好だけは異なります。
 まずわたしは日本文学を好みますが、彼は海外文学を好みます。また、わたしはどちらかといえば古典を好みますが、彼は現代文学を好みます。
 共通して好む作家は、筒井康隆、安部公房、フィリップKディックくらいですね。安部公房は最新の全集を買ったので、という理由で、作品集全巻を数年前に譲ってくれました。有り難いことです。
 例えば、わたしが学生時代に漱石、芥川、三島などを読んでいたとき、彼はクレジオやマルケス(百年の孤独!)、ロブグリエなどを読んでいました。クレジオの「大洪水」をその頃に読めたのは彼のおかげです。「百年の孤独」は後回しにしてしまいましたし、ロブグリエは挫折。
 歳をとっても傾向は変わらず、彼のおかげで様々な海外の作家を知りました。ピンチョン、エリクソン、オースター、ジョイス、ナボコフ、アーヴィング。もちろんわたしはそれらのほんの少しの作品しか読んでいませんが彼がいなかったら読まなかったかもしれません。
 ただ不思議なことに彼は海外文学好きなのにメルヴィルやスタンダール、フローベール、ユゴー等々の古典はほとんど読んでいないのです。カフカ、カミュ、ドストエフスキーくらいかな?(これらの作家は二人で共通して好む作家です)逆にわたしは、海外の現代文学には疎いですが、いわゆる全集に掲載されるような古典は大体読んでいました。
 とにかく文部省推薦みたいな古典を彼は嫌っていましたね。理由はわかりませんが、ギターの趣味にしてもレスポールやフェンダーは絶対いやだと言ってスタインバーガーやケンパーカーフライを買いました。一般的な人気商品や流行に流されたくないのでしょうね。わたしはどうしても王道を進んでしまう優等生タイプなので異端を恐れない彼のそういうところをとても尊敬しています。長く友人でいられるのはそのせいかもしれません。
 話を戻すと、ではわたしが彼の影響を受けるだけで、逆はないのかと言われると、最近知ったことですが、彼も割と最近になって日本の古典を読むようになりました。青空とかで読める時代だからでしょうね。ドグラマグラとか選択が彼らしいですが笑、夢野久作とか気に入ったみたいで、乱歩ラインが好きなわたしとしてはうれしい限りです。漱石や太宰や三島も読んで太宰は結構気に入っていると言っていました。面白いですね。普通は順序が逆だと思うのですが、ピンチョンやナボコフを読んでから漱石、太宰という流れなのですよ。どういう感じがするのかじっくり感想を聞いてみたいものです。

 何が言いたいかと言いますと、なんでもそうですが、嗜好が異なる友がいると幸せになれるということです。お互いにまったく同じ趣味で語り合うのも良いかもしれませんが、好みが異なることで、より世界は広がります。これは文学だけでなく、音楽やその他の芸術、娯楽、スポーツ何にでも言えることだと思います。
 そういう友が一人いるだけで、人生は輝きます。わたしは幸せ者だと本当に思うのです。

 長くなりました。それではまた。


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