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掌小説「少女と魔法使い」~青ブラ文学部お題「白いワンピース」


「さやか!あまり遠くに行くんじゃないよ」 
「はーい」
 灼熱の太陽が陰りを見せて水平線と重なりかけた頃、白いワンピースを着た長い黒髪の少女が波打ち際で裸足になり水遊びをしていた。少し離れた砂浜で家族は帰り支度を始めている。沈みゆく太陽の方向を見やると沖合に一艘の小舟が波に揺れながら浮かんでいた。太陽を背にして陰影を纏いながら、徐々に海辺に近づいてくる。
 小舟にはさやかと似た長い黒髪の、黒いワンピースを着た少女が座っていた。左手に古びた杖を持っている。小舟を泊めると無表情でさやかを見つめた。
「あたしは真央、あなたは誰?」
 黒いワンピースの少女は言った。
「わたしはさやか。船に乗ってきたの?」
 真央と名乗る少女は半身になると右手で陰る沖合を指さしながら言った。
「向こうから来た」
「海から?」さやかは怪訝そうに答えた。
「もう日が暮れる。危ないから帰った方がいい」真央は諭すように言うと、ゆっくりと船を沖に出し始めた。
「うん。ありがとう。もう帰るところ。明日も来る?」
「たぶん」
 船は既に沖合遠くにあった。死にかけた太陽と重なって小さな黒い影がゆらゆら揺れて、暫くすると蝋燭の灯を吹き消すように消えた。

 翌日、さやかは朝早くに海岸に来た。家族の休暇は夏とともに終わりつつあり、その日の間に東京に帰らなければならなかった。父母は海に寄っている暇はないと反対したが、一時間だけとお願いして、海沿いの道路脇に車を停めてもらっていた。
 さやかは小走りに、昨日真央と会った波打ち際まで来た。夕暮れ時だった昨日と違って、朝陽がさやかの白いワンピースの背中を焦がし、水平線は鮮明に映し出されていた。しばらくすると黒い小さな影がどこからともなく小舟に乗って現れた。
「真央ちゃんだ!」さやかは叫んだ。
 真央は昨日と一寸たりとも変わらない黒いワンピースを着て左手に杖を持ち、ゆっくりと船を海辺に寄せた。
「さやかちゃん、乗って」
「その船に?」さやかは不安そうに言った。
「うん、乗って。大丈夫だから」
 さやかは小舟に乗った。真央が左手の杖を軽く振ると小舟がゆっくりと動き出し、次第に砂浜から遠ざかっていく。
「こわいよ」さやかは段々と小さくなる砂浜やその先の道路脇に停まっている家族の車を見て蒼ざめた。
「大丈夫。すぐに着くから」真央は顔色を変えずに優しい声で言った。
 改めて真央を見ると、さやかと同じくらいの一二、三歳というところだろうか、体格もよく似ていて小さく華奢だった。ただワンピースの色が違った。さやかは白。真央は黒。
 気がつくと砂浜が見えなくなっていた。四方見回すとすべて海だ。さやかは泣きそうになった。
「着いたよ」真央が言った。「これあげる」
 真央は青いロケットペンダントをさやかに渡した。キラキラと輝く宝石のようなロケットだ。
「ありがとう」さやかはうれしかったが、内心穏やかではない。沖合のどこかわからない海の上に少女二人きりでいるのだ。もう一度四方を見渡した。海は不気味なほど穏やかで、海面は静謐さを保っているが、少し霧がかかって周囲には砂浜どころか島一つ、船影一つ、海鳥の姿さえ見当たらなかった。完全に海の上に二人きりだった。二人きり?
 気がつくと、真央がいなくなっていた。小舟に乗っているのはさやか一人だった。
 「真央ちゃん!真央ちゃん、どこへ行ったの!」さやかは叫んだ。目には涙が浮かんでいる。この広い海の真ん中に自分一人が小舟に乗って取り残されたのだ。第一、真央はどこへ行ったのか。まさか海に飛び込んだのか。いやそんな音はしなかった。さやかは小舟から海面を覗いてみた。
 海は透き通っていて深い深淵が果てしなく続いていた。その奥に何かが動いた気がした。そして小さな声が聞こえた。「お...さん」
 と同時に、海の底からゆっくりと何かが揺れながら浮かび上がってきた。船に近づいてくる。最初は小さくて、次第に大きくなり形が露わになっていく。さやかは声を上げた。それは白い布きれで、海面に浮かび上がると小舟の真際を漂っていた。 
 ひどく汚れている。さやかは思わず手を伸ばし布きれを拾い上げた。海水を振り切って小舟に広げてみた。ワンピースだった。汚れていてもわかる。真央が着ていた黒いワンピースと同じものだ。だが色は白い。
 小舟がゆっくりと動き出した。さやかは、左手に真央からもらった青いロケットを握りしめて、小舟の上に広げたワンピースを見ながら心の落ち着きを取り戻していた。小舟が動き出している。きっと海辺に向かっているんだ…帰ろうとしているんだ。
 さやかの予想通り、あっというまに砂浜が見えてきた。砂浜には人だかりができていた。さやかがいなくなったのを心配して集まった人たちだろう。皆手を振っている。さやかも左手にロケットを握りしめたまま大きく手を振った。
 小舟は海辺に着いた。泣きそうな顔をした母親が駆け寄ってきた。父も弟も安堵の表情を浮かべている。
 さやかは小舟を降りた。母に抱きしめられて思わず涙がこぼれた。十数人のひとたちが集まっていて、皆良かった良かったと頷き合っている。
「心配したぞ!どこへ行ってた?」父が半ば怒ったような口調で言った。無理もない。さやかは申し訳ない気持ちになった。
「真央ちゃんと船に乗って、気がついたら遠くまで行ってしまったの」目頭を指でぬぐいながらさやかは言った。
「真央ちゃん?誰のこと?」母が聞く。
「その小舟に乗ってた女の子。黒いワンピースの…そうだ!」
 さやかは思い出したように小舟に戻って、白い布きれを手に持った。
「何だそれは」父が言った。さやかから受け取ると広げてみた。紛れもなく白いワンピ-スだ。父はワンピースの表裏を確認し、裏地を覗いてみた。「誰の服だ?その真央って子の服か?」
「違うよ。真央ちゃんは黒いワンピースだったから」
「しかし…」
 父は、ワンピースの襟元のアルファベットを見つけた。
 Maoh
 青い糸で縫い付けられた文字にはそう書かれてあった。
 そういえば… さやかは真央から受け取った青いロケットのことを忘れていた。ワンピースのポケットから取り出して父に渡した。
「これを真央ちゃんからもらったの」
 父はロケットを受け取ると、中を確認しようと蓋を開けようとした。少し手間取ったがなんとか開けると、父の顔がびわずかに強ばった。隠すように元の表情に戻すと静かに蓋を閉じた。
「写真が入ってる。なんだか、よくわからんが、放っておく訳にもいかないから警察に届けとくか」父は言った。そして、集まった人たちに頭を下げながら、さやかを手招きして車に戻っていった。
 さやかは母と手をつないだまま、同じように人々にお礼を言いながら車に戻った。近くの交番に寄ってワンピースとロケットペンダントを届けて仔細を話してから、一路東京へ向かった。
「何の写真が入ってたの?」後部座席から運転している父にさやかが聞いた。
「小さな女の子と女の人の写真だよ。たぶん親子だろうな」
 父はそれきりこの話には触れようとしなかった。ひたすら東京の我が家に車を飛ばした。

 ひと月ほど経った頃、さやかの家に手紙が届いた。父によれば、感謝の手紙だった。
 数年前、あの海で家族が目を離した隙に、一人の少女の行方がわからなくなった。水遊び中に海に流されたのか、誘拐事件か、警察は捜査を続けたが、少女は見つからず、遺体もあがることはなかった。捜査は今も両方の線で続いているという。
 行方不明になった少女の名前は真央といった。ワンピースとロケットペンダントは残された家族にとって大事な品となった。真相はいまだにわからないが大事な娘の最後の品物であることに変わりはない。それを見つけてくれたさやかたちにお礼の手紙を送ってきたのである。
 さやかの頭に、黒いワンピースを着て左手に杖を持った真央の姿が浮かんだ。真央はきっと魔法使いになったんだ。あのとき覗いた深淵に棲む魔法使いに。
  さやかの頬を秋の風が優しく撫でた。


 青ブラ文学部のお題にに参加させていただきます。いつも企画ありがとうございます。








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