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[勝手に芥川研究#6] 人としての芥川龍之介~実直のひと

人としての芥川龍之介について、気難しくて理屈っぽく、冷徹で神経質、ブルジョア気質から所詮抜け出せなかった小市民、常に他人から攻撃を受けないようにバリアを張っていた臆病者等々、色々ネガティブなイメージを持つ人がいます。もちろん人間ですので好き好きあるのは当たり前です。
ただわたしから見る芥川は、良くも悪しくも自分に真っ正直で他人にも嘘をつけない「実直のひと」だったと思います。逆にたまには自分に嘘をついて逃げても良かったし、他人にも嘘をついても良かったとさえ思います。そうしていれば少しは心の重荷が軽くなったのではないかと。

例えば、一九二三年、よりにもよって大震災の年にただでさえ忙しく身体も弱っているときに本来得意ではない「近代日本文芸読本」の編纂をある出版社から依頼されます。頼まれると断れない気質の芥川はこれを引き受け、完璧主義の彼はとことん凝りに凝って何とか出版にいたりますがあまり売れず、労多くして功少なしの典型でした。しかし文壇では文句が絶えず、挙げ句には彼だけ稼いで書斎を建てた等々陰口を叩かれる始末。そのときのいきさつを菊池寛はこう述べています。


 その一の例を言えば興文社から出した「近代日本文芸読本」に関してである。この読本は、凝り性の芥川が、心血を注いで編集したもので、あらゆる文人に不平なからしめんために、出来るだけ多くの人の作品を収録した。芥川としては、何人にも敬意を失せざらんとする彼の配慮であったのだ。そのため、収録された作者数は、百二、三十人にも上った。しかし、あまりに凝り過ぎ、あまりに文芸的であったため、たくさん売れなかった。そして、その印税も編集を手伝った二、三子に分たれたので、芥川としてはその労の十分の一の報酬も得られなかったくらいである。

 しかるに、何ぞや「芥川は、あの読本で儲けて書斎を建てた」という妄説が生じた。中には、「我々貧乏な作家の作品を集めて、一人で儲けるとはけしからん。」と、不平をこぼす作家まで生じた。こうした妄説を芥川が、いかに気にしたか。芥川としては、やり切れない噂に違いなかった。芥川は、堪らなかったと見え、「今後あの本の印税は全部文芸家協会に寄付するようにしたい」と、私に言った。私は、そんなことを気にすることはない。文芸家協会に寄付などすればかえって、問題を大きくするようなものだ。そんなことは、全然無視するがいい。本は売れていないのだし、君としてあんな労力を払っているのだもの、グズグズ言う奴には言わして置けばいいと、私は口がすくなるほど、彼に言った。

芥川の事ども

最終的には三越の商品券を全員に配ったらしいですが、その気の使いようを菊池寛は大層悲しみました。菊池寛なら雑音など意にも介さず、むしろあれこれ文句をつけてくるやつらを一喝していたでしょう。芥川はそういうことのできない人です。これを斜めに見る人は、育ちの良さからくる行儀良さ、人から良く見られたいという偽善に見えるかもしれませんが、わたしはそのときの彼の心境を察するに悲しいくらいの実直さを感じます。

弟子に対する態度もそうで、弟子の堀辰雄に対する手紙は有名ですね。
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冠省。原稿用紙で失礼します。詩二篇拝見しました。あなたの芸術的心境はよくわかります。或はあなたと会っただけではわからぬもの迄わかったかも知れません。あなたの捉え得たものをはなさずに、そのままずんずんお進みなさい。

芥川竜之介書簡集

励ましの言葉が、かつて芥川自身が「鼻」で漱石からもらった次の手紙から来ていることは間違いありません。

大変面白いと思います。上品な趣があります。しかし『鼻』だけではみんなが黙過するでしょう。そんな事に頓着しないでずんずん御進みなさい。

漱石先生に認められたときの喜びを芥川はずっと忘れなかったはずです。同じ言葉を堀辰雄に送っているわけです。堀辰雄がどう思ったかわたしは調べていませんが、きっと励みになったことでしょう。

また、瀧井孝作も最初は芥川の弟子でした。田端にいたのは一年ほどですが文壇デビュー作「父」は田端にいたときに芥川の指導を受けて完成させたものです。しかし、瀧井孝作は志賀直哉に会い、結局志賀直哉の弟子になり志賀を追うように我孫子、京都、奈良に引っ越します。わたしならあまり良い気はしませんが、芥川は以降も瀧井に書簡を送っており詩歌をよんだり文学の話をしたり変わらぬ交流が続きました。未定稿には「瀧井君の作品に就いて」という随筆があり、元弟子を賞賛しています。未定稿なので芥川の存命中は公開されず、死後に全集でこれを読んだ瀧井は感激したと聞きます。瀧井は瀧井で芥川を心配し、奈良に呼んで住まわせたいと考えていたらしいです。彼が田端にいた頃の芥川は元気一杯だったのでその後の彼を見ていられなかったのでしょう。
いずれにしてもこのような経緯にも芥川の実直さが現れている気がします。

さらに志賀直哉といえば小説の神様です。芥川は志賀直哉を尊敬しており、小説が書けなくなった、どうしたらよいかと相談したことがあります。そのとき志賀直哉は書きたくなるまで放っておけばよいと答えたそうですが(志賀直哉は資産家なので何もしなくても食べていける)、一方の芥川は自分はそんな身分ではないとしおれたようです。その一方で、若手小説家志望者からの手紙にはもっと勉強しろときつくあたります。
これを自分より強い相手には弱いところを見せ、弱い相手には強く見せる「裏腹」だと嫌うひとがいますが、わたしはそうは思いません。どちらも真実だからです。書けなくて苦しいのも事実だし、小説家というものがどれほど苦しいかよくわかっているからこそ、志望者に安易に目指すものではないと説教するのは当然のことです。がんばりましょう、夢はかないますよなんて、気楽に言うほうが偽善です。

なぜこうも芥川の周辺にはトラブルが起きるのかわかりませんが、例えば、昭和ニ年正月早々に義兄の家が焼け、多額の保険がかかっていたものだから放火の疑いがかけられて芥川含めて関係者が取り調べを受け、挙げ句には義兄が自殺します。トラブルのオンパレードなわけですが、そんな中でも小説を書いています。「玄鶴山房」(中央公論)「蜃気楼」(婦人公論)「河童」(改造)などがそうです。

 朶雲奉誦、唯今姉の家の後始末の為、多用で弱っている。しかも何か書かねばならず。頭の中はコントンとしている。火災保険、生命保険、高利の金などの問題がからまるものだからやり切れない。

芥川龍之介書簡集

書きたくなるまで書かなければ良いというわけにはいかないのです。志賀直哉ほど裕福でないにせよ、芥川もそれなりの蓄えがあったはずで休めば良いものを、彼の作家としての自分への向き合い方がそれを許さなかったのでしょう。悪い意味での実直さが現れていると思います。

さて、芥川の実直さを最も示すのが自裁前の行動です。
自裁する日の深夜に最後の作品「続西方の人」をきちんと脱稿しています。
また、直前に自分が編集に携わった大好きな泉鏡花の全集の配本が完了しています。遺書も友人への手紙や辞世の句もすべてきちんと用意してありました。まさに薬を飲んで床に入るだけ、仕事の面でも私生活の面でもやり残したことはなにもないきれいな状態に整理しています。
小穴くんに迷惑をかけるので、絶命前に連絡するなとまで書いています。
死ぬときまで周囲への気配りを忘れなかったひとだと思います。

彼の実直さを示すエピソードは、挙げればきりがないのでこれくらいにしておきますが、わたしからすると芥川に以下のふたつがほしかったですね。

ひとつは、菊池寛のような生活力エネルギー。
もうひとつは、室生犀星のような素朴かつ自然なエネルギー。
(どちらも芥川に言わせると「動物的エネルギイ」なのでしょう)

長くなりました。
今回はこれくらいにして、また次回の分析で語りたいと思います

それではまた!


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