短編小説のお稽古ごと化~「短編小説講義」筒井康隆より
私は小説作法の類はまず読まないのだが、筒井康隆だけは別で、何か面白いことを書いてくれることを期待してつい手に取ってしまう。まだ読み切っていないが、以下の二冊が手元にある。
どちらも別に自分の書く小説に活かそうという気はさらさらない。筒井康隆という作家が好きで、彼の書くものは破天荒で面白いから、いわゆる作家講座みたいな堅苦しいものでないことは読む前から分かる。彼が書く作家論はどういうものだろうと興味があるから読むだけのことだ。
今回は前者「短編小説講義」(増補版とあるのは、初版が三〇年前と古く、改稿して新たに章を追加してあるため)について少しだけ語りたい。まだ全部読んでいないけれど、それぞれの作品論に入るまでの前置きを読んだだけでも面白いので紹介したくなった。
まず様々な公募に寄せられる今の短編小説は出来が非常に良くてテストで言えば満点ばかりなのだが逆に困ってしまうというくだりから始まる。これは褒めているのではなく、どれも型にはまったきちんとした作品ばかりで面白くないという意味である。筆者は、これを小説がお稽古事化していると表現している。そして本来小説は、内在律(この言葉が盛んに出てくる)がある俳句や短歌などと違い、何をどう書いても構わない自由な文学形式なのになぜそうなるのかを論じ始める。世に溢れる小説講座やカルチャセンターの類に起因するところも大きいが、それだけではない。もちろん形式論不在の小説といえども内在律なしで書く(つまり過去の小説を全く読まずに書く)ことは不可能だとも言っている。そこでいくつかの作品について論じながら、既存の内在律にとらわれて書きながらも、あがき苦しんでそこからはみ出たときに傑作が生まれるという理論を展開する。(ちなみにここで紹介される作家は、ディケンズ、ホフマン、マークトウェイン、ビアス、トマスマン、ゴーリーキー、モーム、ローソン(この作家は初めて知った)、筆者自身である)
最初に述べたようにまだ読了していないから、感想文めいたことは言えない。ただ、第一章「短編小説の現状」を読むだけでも極めて興味深かった。よくプロットづくりで、プロアマ問わず、起承転結だの序破急だの説く人がいて、それは小説作法として正解なんだろうけれども、いつもそのパターンで最後にオチをつけておしまいというのでは、筒井康隆の言うお稽古事の域を出ない。起承転転、起承承承(笑)、何でも良いのだが、うまく納めようとしないで自由に書いたら良いと思う。殺人事件があったからといって、犯人が見つかる必要はないし、伏線を全部回収する必要も無い(回収されない伏線があると読者はおやっと色々妄想するだろう)。
私は小説作法の類を読まずに書いてきたが、これまで読んできた小説の影響を受けているから、知らず知らずのうちに着地点を探して無難なところに収束させていた。つまり内在律どおりに書いてきた。これをどこかで突破しないとダメということなんだろう。難しいことだけど、文豪はみなそうやって殻を破ってきたんだなと思う。
最後に、ヘンリーローソンという作家に興味を持ってしまった。また積読が増えるのか?(笑)
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