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「足跡」~青ブラ文学部「#はじめて切なさを覚えた日 」

 晩夏の夕暮れ、「足跡」は赤褐色に染まった隅田川を左に見て遊歩道を歩いていた。散歩する老婦人、並んで走る若い男と女、虫取り網を持った親子連れ。ふと足を止めると排水口に一匹の干からびた蝉の死骸があった。
 「足跡」は飛ぶ。子供の頃よく遊んだドブ川へ。油くさく廃棄物にまみれた川に降りる坂道の途中に蝉の死骸が落ちていた。同時につい一月前、明け方の蝉の合唱に癇癪を起こした母の姿を思い出した。一月も待たずに終わった蝉の一生。あのときの切なさを超える感情は以後見つからなかった。一生が短いのは必ずしも蝉だけではない。人の一生もさほど変わらない。
 「足跡」は隅田川に戻る。足を止めて隅田川を眺める。澄んでいるとは言い難いがドブ川とは雲泥の差だ。水面は光を纏って静かに息づいている。犬を連れた男性が通りかかった。犬が「足跡」に吠える。ゴールデンレトリバー。筋肉の躍動感からまだ若いことがわかる。賢そうな目をしている。ただ「足跡」は犬が苦手だ。懸命になだめる男性をよそに「足跡」は八丁堀に飛ぶ。
 日本家屋が立ち並んだ一角。誇るように大量の花壇で飾られた大きな屋敷を超えた先に、かつての自分の家がある。玄関には既に灯りがともっている。表札には見ず知らずの他人の名前。木造の壁も瓦葺きの屋根も数十年の時を経て変色しておりそれがかえって味わいを増している。女性が雨戸を閉めようと窓を開けて顔を出す。まだ若い。窓の隙間から小さな子供と玩具が見える。「足跡」は妻のことを思う。寂しがり屋で身体が弱かった妻。光が嫌いで、昼間から雨戸を閉めていることが多かった妻。

-窓を開けて太陽を浴びた方がいい
-太陽は嫌い

 休日のいつものやりとり。
 結局心身ともに衰弱していた妻を側で支えてやれなかった。深夜に帰宅したときに部屋で倒れていた妻の姿はいつか見た蝉の死骸に似ていた。

 「足跡」は隅田川に戻る。
 いつのまにか前を長い黒髪の少女が歩いていた。

-そろそろいきませんか
-ああそうしよう、Erybell

 二人は隅田川沿いを果てしなく歩き薄暮に消えた。

(了)

 


本作は、青ブラ文学部のお題参加作品です。いつも企画ありがとうございます。


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