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触媒雑記帳~かたりすとの日常(その7)

十 大晦日のこと


 かれこれ十年ほど前になるだろうか。大晦日の深夜二時頃、リビングルームの窓越しに、階下から壁に鉄骨を叩きつけたような轟音が鳴り響いた。ベッドで寝入っていたわたしは飛び起きて布団の中で暫く何事かと聞き耳を立てていた。同時に、奥の部屋で寝入っているはずの高齢の母が目を覚まさないかと心配していた。
 幸いわたしの寝室はリビングの隣で外の音が筒抜けだが、母の寝室は窓から最も離れた奥の部屋で冬だから部屋の扉も閉め切ってあった上に本人の耳が遠いため聞こえなかったのだろう。母の安らかな寝息がかすかに聞こえてきた。わたしは安堵した。ただ窓の外から聞こえた先ほどの轟音に続いて何か騒ぎが起きるのではないかと警戒し数分ほど様子を見ていた。しかしそれ以後何も起きず静寂が続いた。
 先ほどの何かを叩きつけたような凄まじい音は夢か?いや夢ではない。
 わたしはベッドから抜けだし、セーターを羽織ると、リビングの窓際に行き、カーテンを開けて外の様子を見てみた。うちの部屋はマンションの八階で窓からの見晴らしが良い。窓越しに見える景色は何の異常も感じられなかった。暗い空、粒状の星、針葉樹をおぼろげに照らす街灯、はるか遠くに見える高級ホテルの光、深夜二時の静寂と真冬の冷気が異常なほどの透明感を漂わせていた。
 脳裏をある予感がよぎった。先ほど聞こえた轟音は何か大きなものがマンションの上階から地面に落ちた音だ。マンションの上階からあれほどの音を立てて落ちるモノといえば… わたしは昔読んだ宮部みゆきの「理由」という小説を思い出した。
 寒くなってきたのでベッドに戻り横になったがなかなか眠れない。そうこうしているうちに救急車の音が聞こえてきた。次第に音が大きくなり、うちの棟の近くに着いたのがわかった。やはり何か起きたのだろう。特に慌ただしい物音や人の声は聞こえないまま、しばらくして救急車が去って行くのがわかった。野次馬心を出して寒空にバルコニーに出て外の様子を見に行く気にはなれなかった。気にしても仕方がない。わたしはそのまま眠りについた。
 
 夜が明けた。起床して着替えた後、母が起きてくる前にわたしはバルコニーに出て階下を覗いてみた。やはり何か起きた様子はない。人が集まっているとか、警察官が来ているとか、そのような事態はまったく起きていなかった。実は内心期待していたのだ…。 人々の喧噪、地面に残る血痕、荒れた植木等々。しかし元旦のせいか人の姿はなく、いつもよりも増して静かな冬の朝だった。
 わたしは少しがっかりして、部屋に戻り、朝食の支度を始めた。ただ内心確信を持っていた。昨晩誰かが落ちたことを。そしておそらくは自らの意志で。それは憶測でも何でもなく、むしろ羨望に近いものだった。
「おはよう。元旦の朝だよ」母が眠そうな目をこすりながらよろよろと起きてきたので声をかけた。神経症の母に事件のことは一切話すつもりはない。
 事実わたしたちの家には何事も起きていない。壁の外で何が起きようと、いつもと変わらない平穏な一日をただ過ごすだけだ。洗面所の鏡で落ち窪んだ自分の眼を見つめながらわたしは思った。
 何のことはない。いつもと変わらない朝だ。そしてまた一年が始まるのだと。

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