断捨離中に出てきた数年前に書いたレポートが今やりたいことに繋がっていた

部屋から物が溢れてしまって落ち着かないため、重い腰を上げて断捨離していると、学生時代のレポート用紙が出てきた。

四国八十八箇所お遍路の旅で得たこと」というタイトルで読み返してみると、偶然にも前回書いた”散歩会”に通ずるものがあったため、noteで文章に残し、用紙を捨てたいと思う。

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1回目からの授業の資料に目を通していると、最初の授業で取り上げられていた「四国八十八箇所巡礼」に目が留まった。実は私は四国へお遍路をした経験がある。授業の資料では、「四国八十八箇所巡礼」などの寺社巡りが自らを見つめ直す癒やしの旅として注目されているとある。

また、小学生の時に担任の先生が「どんどん色々な物が発明されていきその場から動かなくてもよくなるため、”いずれ人間の足がなくなるかもしれない”」と言っていたのを今でも覚えている。車や公共交通機関が普及したり、どこへ行ってもエスカレーターやエレベーターがあったりと世の中が便利になりすぎて歩かなくてもよい時代になっている。

私が自分の足を使って歩き続けた「四国八十八箇所巡礼」で得た教訓や学んだこと、心の変化などから自分なりの旅という行為、歩くという行為の意義や良さを伝えたい。

お遍路を簡単に説明すると、約1200年前に弘法大師こと空海が仏道の修行のために開いたと伝えられる。その行程は約1400kmあり、歩きだけだと1ヶ月前後かかるようだ。

第一番札所霊山寺からスタートしたのだが、思いつきの旅だったため、何をすればいいのか右も左もわからなかった。そんな私を見かねてかお寺の方が一から教えていただき、終いには金札と納経帳をお接待してくれた。

その日は、四方八方が自然の中、約35kmを歩いたのだが、急ぎすぎていたこともあり、自己との対話もままならず時計ばかりを気にしてしまっていた。そんな中にも、旅には色々なことが起きる。空海が試練を与えているかのように泣いている迷子に出会った。

私は子どもを嫌いと思ったことはないが、どう接していいのかわからなかった。しかし、子どもは泣いている時こそ感情的になっているが泣き止むと意外と冷静で、離ればなれになっていたおじいちゃんがいるであろう場所を自ら言っていた。「もういい」と言われたが無事におじいちゃんのところまで連れて行くと、心のどこかで「私のほうが人生の迷子」だと呟いていた。

徳島県では何日かバスを利用したが、バスの運転手が徳島県人の人の良さを表していると感じた。徳島県のバスの運転手は他のバスがすれ違う時に満面の笑みで大きく手を振っていた。田舎の方ではバス停以外の所でも乗り降りが可能な地域もある。商売だけでバスの運転手をやっていない暖かみというものを感じた。

今の世の中、すでに豊かということにかかわらず、お金のため・自分のために更なる豊かさを求めて仕事を行っている人が多いのではないか。そのせいで以前は豊か(幸福)と感じていたことが今ではそれが普通になっていると感じる。それはさておき、いい人と一緒にいると自分もいい人になろうという気持ちにしてくれることを学んだ。

「自分が(いい人に)変われば、周りも(いい人に)変わる」

第二十一番札所太龍寺では、弘法大師が言った心得のようなものが書いている石碑があった。

一 いかなる難を難とせず、いかなる苦を苦と思わず、道を切り開け。
一 人の振りを見て自分の心の悪を直せ。人の心、自分の心、ともに相い助け合え。
一 何事に対しても誠意を持て。人からは感謝の念で受けろ。

いかなる難の者、苦の者でも弘法大師はこの心に従う者を助ける。

これは、現代でも通用するものばかりである。その後日、またもや試練の一つなのか私は自然気胸で入院したことがあるのだがその時に似た症状が起きてしまい、少し歩いては座りを繰り返していた。ふと石碑に書かれていた「苦を苦とせず」というフレーズを思い出し、自分に言い聞かせるため、「苦しくない」と呟きながら歩いてみた。すると、不思議と苦しくなくなり逆にエネルギーが溢れてきた。

「苦を苦と思わない」

高知県に入ると、今まで殆ど知らなかった中岡慎太郎の像があった。中岡慎太郎像の裏にはこう書かれていた。

献身
中岡慎太郎は常に何かのために献身した。
農民のために献身した庄屋、
勤皇党のために献身した青年、
尊皇倒幕のために献身した志士、
薩長連合のために献身した政客として 慎太郎生きた。
彼はやりたいからやったのではなく、
大義のためにやったのである。大義のためには、
やりたくない事もやり、
やりたい事をやめてでもやったのである。
妻をすて、家をすて、生命をまでもなげ捨てて。

中岡慎太郎は農民のため、国のため、常に何かのために献身していた。何もかも投げ捨てて。この文を読んだだけだが、中岡慎太郎が好きになった。私は今までの人生の中で何かのために献身したことはないだろう。あったとすれば自分のためだけであった。誰かのために献身できることを見つけたときには、中岡慎太郎と同じようにやりたくない事でもやり、やりたい事をやめてでもやっていきたい。必ず献身できる仕事であり、職場に就いていたい。

歩くことにも慣れ、自己との対話をしながら歩いているとふと人生と道は似たり寄ったりな気がした。人生辛い時、苦しい時、道で言うと上り坂、いつかは下り坂が来る。人生にも同じことが言えるのではないかと思う。人生でも必ず幸せなことがいつかは起こると思う。

道に迷子になったら人が教えてくれるし人生で迷っても人に助言をもらえばいい。マラソンでは全力疾走をすればいいわけじゃない。人生は42.195kmでは足りなすぎる距離を進むわけで、私はせっかちに人生を焦りすぎていたんだと思う。同世代の人と比べてしまうと大分距離を離されてしまっているけれども、私はゆっくりでものんびりでもいいので本当にやりたいことを見つけたい。

約2週間、実際に四国に旅立ちお遍路を行った。残念ながら巡った寺の数は半分満たずの43箇所しか巡れなかった。しかし、実際に自分の足で歩き、自然の中での自己との対話やその場所の雰囲気を味わうことによって、普段の雑音ばかりの生活の中では得られない何かを発見した。私が得た何かというものは実際にこの地を歩いた者にしかわからない。この得たものは人それぞれ違うものである。

旅の最後の方にもなると足の痛さも限界を超えていたが、逆にそれが心地よく感じ、歩くことと考えることに夢中になれた。夢中になっていた時は、自然と悩みは消えていた。自然の中を散歩したり登山をしたり、自然と一体化することが癒やしの旅へと繋がったのではないかと信じている。

何か悩みを抱えたときは、まずは歩いてみてはどうだろうか。


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