見出し画像

ち・い・き・い・こ・う

この文章では障害を漢字で表記しています。障害者基本法で障害者とは「心身機能の障害」及び「社会的障壁」により相当な制限を受けるもの。と定義されています。実際に障害のある皆さんのお話を伺うと、社会に存在する障壁(バリア)が、生きづらさをより強めていることを感じます。障害の害は、その人の周り(社会)に存在して、その人の生活を脅かす「害」でもあること、また私自身も知らないうちに社会的障壁の一部を担っているかもしれないという自戒も込めて漢字のまま記しています。
ただ、あくまでも個人の考えであり、害のひらがな表記も尊重しています。それこそ多様な考え方があって当然と思っています。
(正式名称で害をひらがなにしているものはそのまま表記しています)

画像1

さて、「ちいきいこう」は「地域移行」と書きます。いわゆる福祉用語ですが、関係者であっても、携わる分野によっては馴染みが薄いものかもしれません。
地域移行とは、施設や精神科病院で長い年月を過ごさざるを得なかった障害のある人たちが、地域社会に帰ること。長野県では約20年前に県立の大規模知的障害者施設(当時の入所者460余名)で、約半数の入所者がそれぞれの街に帰る「地域生活移行」を実施しましたが、このような活動の源流は、1959年デンマークで提唱された「ノーマライゼーションの理念」にあるといえます。ノーマライゼーション(normalization)は、「普通化、通常化、正常化、標準化」を意味する英単語にすぎませんが、検索すると、障害のある人たちに対する考え方を大転換させたエピソードが付随して出てきます。現在盛んに言われる「多様性を受け入れる社会」や、すっかり日常語になった「バリアフリー」や「ユニバーサルデザイン」のルーツだと感じる人もいるでしょう。

画像2

1950年代、デンマークに限らず当時の欧米諸国には、1,000人を超える知的障害者が入所する(というより収容される)巨大な施設が数多く存在していました。居住環境もケアの質も劣悪で、障害者は一般社会から隔絶された異常な世界に閉じ込められていたのです。
それは人権侵害だと捉えた入所者の家族や関係者らが施設の改革を訴えて動き出します。中心人物はバンク・ミケルセン氏。彼は第2次世界大戦中ナチスの侵略に抵抗して強制収容所に投獄されます。戦後、社会省行政官となって障害者の施設を視察した際、そこがナチスの収容所とあまりにも類似していることに大きな衝撃を受けます。そして障害のある人たちの暮らしを、ノーマル(普通、通常、正常、標準)にするために奔走します。ミケルセンらは、障害のあるその人を変えようとしたのではありません。障害のある人が暮らす施設の環境は異常であり「その環境をノーマルにする」さらに障害者を排除し劣悪な環境に置くことを容認してきた社会も異常であり「そんな社会をノーマルにする」行動です。
彼は法律の中でノーマライゼーションという言葉を用います。この理念は欧米各国に広がり、障害者施設の環境やケアの改善のみならず、「脱施設化」(大規模な施設や精神病院を廃止する。障害のある人たちは街で暮らす)を後押しする力になります。
ノーマライゼーションとは「環境の普通化」です。何が普通か、考え方は様々だと思いますが、少なくとも自分が望んでもいない大勢の他人と24時間365日の集団生活、職員に時間も食事の選択肢も鍵も管理された生活は一般市民の生活とは大きくかけ離れていて、とても普通とは言えません。
障害があるのだから、普通ではない生活を強要されても仕方ないと思いますか?

画像3

ノーマライゼーションの理念は1981年「国際障害者年」を機に日本でも知られるようになりましたが、当時は「障害者が安心して暮らせる場は施設」と多くの人が信じていました。私もその一人です。福祉は入所施設中心。精神障害のある人たちにとっては福祉施設さえもなく、すべてが精神科病院の時代でした。
1980年代後半から90年代にかけては法律の改正や新しい制度の誕生があり、精神障害のある人たちがいくらか病院を出やすくなりました。2000年代に入ると国の精神障害者退院促進支援事業が実施され地域移行が始まります。それから約20年。当時より減少したとはいえ、依然として精神科病院の入院患者数、入院期間の長さは世界のトップクラスです。国連による障害者の権利条約第19条には「障害者が、他の者と平等に、居住地を選択し、及びどこで誰と生活するかを選択する機会を有すること並びに特定の居住施設で生活する義務を負わないこと」と明記されています。この条約、日本も批准しましたが、現状は条約違反と言っても過言ではなく、以前から人権問題として国の内外から批判され続けているところでもあります。

画像4

近年では新たな患者さんの入院期間は短縮傾向にありますが、すでに入院期間が長期化している人たちの地域移行はなかなか進みません。1年以上入院されている人の半数が75歳を超えて、精神疾患の症状自体は落ち着いたものの心身機能の低下が著しい。帰る家を、家族や友人との関係を失っている。患者さん自身の退院に対する意欲が低下している等が背景にあると言われます。その通りでしょうが、患者さんの責任ではありません。青年期に発病し、入院が数十年にもわたり、地域社会の暮らしをほとんど経験しないまま精神科病院の中で歳を取られた方々も大勢います。このような事態を招いたのは国の不作為(本来するべきことを怠ること)だとして、精神医療国家賠償訴訟が始まり、その行方が注目されています。ハンセン病についても同様でしたが、日本は隔離政策を好む国なのでしょうか。もちろん私自身を含めて国民の多くがその政策を支えてきてしまったことも自覚する必要があると思っています。

画像5

最後にピアサポーターについて触れます。入院が長い人たちから「退院などしたくない、ずっと病院にいたい」と言われます。前述した「退院への意欲低下」の根拠ですが、人は環境に適応する生き物で、初めは嫌だと思った場所でも長く居続けると良くも悪くもそこに適応します。すると今度は他に移ることに不安を覚えるようになります。これが退院に対する意欲低下の正体だと考えます。また、退院を求めたが認められないことが繰り返されると、諦めの気持ちが強くなります。「退院したくない」のではなく「自分はもう退院なんてできないだろう」と思い込んでしまうのです。
そのような人たちの心を動かせるのは、自身も精神障害に苦しんだり入院を経験したりしている当事者の人たちです。ピアサポーター(ピアは同じ境遇の仲間という意味)と呼ばれる彼ら彼女らは各地で活動していて、私は退院支援の場面でいつも助けてもらっています。精神科病院を訪問し「病院から出たくないです」と言う人に退院を勧める。私のような立場の者が「病院を出れば自由ですよ。好きなことができますよ」などと力説しても届かない。しかしピアサポーターが自身の体験や思いを話し出すと、患者さんたちの表情が明らかに変わるのです。もちろん簡単に「では退院します」とはなりませんが、ピアサポーターへの質問が出ます。「何食べていますか」「お金はいくらぐらいかかりますか」シンプルな問いだからこそ、その人の心の内が垣間見えるようです。ずっと病院に居たい。と心底願う人はいないと思えるのです。

コロナ禍で退院支援の活動は相当に制限された2年間でしたが、状況が落ち着いたらまた病院を訪ねて、入院されている人たちに会うことをピアサポーターの皆さんは心待ちにしています。そんな気持ちを伺うと、私も諦めず、彼らの力を借りながら、また新たな気持ちで地域移行に取り組もうと思えるのです。

画像6

【著者プロフィール】

紅林奈美夫(くればやし なみお)

1958年千葉県鋸南町(源頼朝上陸の地ですよ!)に生まれる。
海辺の町に育ったせいか、山があって標高の高い土地に憧れ信州に来ました。
現在、松本圏域障がい者基幹相談支援センター:退院支援コーディネーター
(NPO法人ハートラインまつもと所属 社会福祉士/精神保健福祉士)

長野大学卒業後、知的障害者施設支援員、精神科病院ソーシャルワーカー、介護支援専門員、介護福祉士養成の専門学校講師を勤め、2017年より松本圏域障がい者総合相談支援センターWishに退院支援コーディネーターとして着任しました。2020年基幹センター設置に伴い異動(同じ部屋ですが)幼少期からの鉄道好きです。今の職場は線路沿いで、多様な列車が駆け抜けてたまりません(笑)コロナ禍が落ち着いたら、遠い街まで列車に揺られて旅をしたい。まずは故郷のお墓参りから。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?