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常識外れの生き方

たぶん人生の後半を走っているのだろう。その位まで生きて来ると、大抵の事がどうでも良くなる。悩みや辛さが無いというのではない。時々の不快はチクリと胸を刺すし、不安に駆られて鳩尾辺りがサヤサヤする事だってある。強くなったのではきっと無くて、諦めと面倒臭さの入り混じった落ち着きの中に居るようだ。

親や子や孫といった血を分けた人達に愛着が無い訳では無いが、それぞれ元気にやってくれれば良いと思うだけ。折々に会いたいと全く思わない。縁戚の訃報を伝えられるとスケジュールを合わせるのが面倒だ、とまず思う。ああ、人間は生まれてから死ぬまで様々な儀式があるけれど、この七面倒くさいセレモニーは必要なんだろうか、と常々思う。

女は家庭に居るもの。出歩くなら姑や夫の了解を得てから。こんな言葉はもう時代錯誤だろうけど、まだ地方の田舎には息づいている。驚く事にこれを口にするのは女自身なのだ。私が山や途方もない距離のジャーニーランに夢中になっていた頃、眉をひそめていたのは周囲の女達だった。素晴らしい景色や、冷や汗ものの断崖の登下降の話をしたいのに、「よく家を空けられたね」「誰と行ったの」などと言われる事が多かった。

病気と名の付く程の「山病」は、コロナと転職を機にすっかりと鳴りを潜めた。やり切った感と、この先山のグレードを上げて行く上で、そろそろ「死」「大怪我」の文字がチラつき始めた。潮時だったのだろう。私は年を取り、疲れてしまった。

「生き急いでいるようだ」と言われた事もある。そうなのかも知れない。還暦を前に100歳を超えた高齢者のような、ボンヤリとした欲も得も無い境涯に居る。鮮烈な感情、感傷も無い。ボヤーとした、まぁこれで良いではないか、という安らぎの心地に暮らしている。

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