性別の正体と性差別について考える

ー本稿は別のアカウントで2021年11月頃に書いたものを本人がここに移転したものですー

もう長いこと考えている疑問がある。人は何を以て自分の性別を確信するのだろうか。性には大きく四種類ある。生物学的な性、性自認、性的指向、そして表現する性。生物学的な性は男・女・両性具有にしろ自動的に決まるとして、後の三つは人の数だけ答えがあるうえに、その人のアイデンティティに関わるので、適当に見過ごすわけにもいかない(マジョリティの人はそう思わないかもしれないけれど、一度自身もマジョリティとして”一般”を押し付けられることになんの息苦しさも感じないのか、胸に手を当てて聞いてみて欲しい)。しかし上で述べた性の内、生物学的性を除いた残り三つの正体について、明確に答えられる人はいるだろうか。想像するに、自分の属性が明確である人ほど感覚で分かってしまうので説明しずらいのではなかろうか。本記事では僕の個人的な意見を置いておくので、もし他にマイアンサーがある人が居たら是非お話を伺ってみたい。

①表現する性

現代社会では自身の性に関わらずに自己表現することに寛容になりつつある。男だってメイクしても良いし、女だって企業戦士になっても良い。この議論の根底にあるのは、女ならこう、男ならこうという社会的な慣習であるジェンダーだ。

僕はジェンダーは宗教の一つだと捉えている。根拠はないのに各々が自身の行動指針をすり合わせ、果てにはその行動をアイデンティティと錯覚する。歴史上この”宗教”がメリットを生んだ期間もあったかもしれないが、個の自由と自立が重視される現代にとっては負の遺産でしかない。男がネイルしても、女がネクタイしてもいいじゃない?って考えでは既に物足りなくて、そもそもネイルが女属性で、ネクタイが男属性だという根拠はどこにあるんですか?って問いたい。

ということで僕はジェンダーはまやかしだと考えているわけだが、世にはどうも「ジェンダー教」信者が多いらしく、彼らとの意思疎通の妥協点として、僕は仕方なくxを自称している。

②性的指向

言い替えると「好きになる性」。ゲイやレズビアンの人もいるように、好きになる相手の性は自分の性とは無関係なので、独立して考えるのが最近の傾向。男女両方好きになれるバイセクシャルの人が居るように、両方好きになれないアセクシャルという性もある。更に言うとアセクシャルの界隈では「性的欲求」と「恋愛感情」を分けて考えるため、「性的欲求はあるが恋愛感情はない」といったパターン、その逆、または両方無いといったバリエーションがある。(恋愛と愛の違いは下心の有無という説も見かけるが、ここでいう「恋愛感情」は純粋なパートナーシップ的な愛?と仮定する)

性的指向の文脈で性の正体を考えるとき、性的欲求の方は有無が比較的明快である。問題は恋愛感情の方だ。

僕の持っている「好き」は、時に執着じみることもある「愛着」と、過剰になると信仰にさえなる「尊敬」だ。「好き」に対して表面化する行動は、僕の所有するリソースに対する優先権を与えその他大勢の人間(物)との差別化を図ることである。この「好き」は僕が愛するありとあらゆるもの;家族、友人、鳥、鉱物、漫画、声優、食、旅行…それらに対してほぼ共通している。

さて、世間一般のいう「恋愛感情」は僕の「好き」にどれだけ重なるのだろうか。

③性自認

付き合いの長い親友が性同一障害の診断を受け、手術を受けた。彼の場合、あるべきものが無くてないはずのものがあることに違和感があったのだろう。つまり性自認の正体は自身の体に対する違和感が鍵であると考える。僕は彼と違って、要らないものはあるがつけたいものはない。思うに、第二次成長を経て人は体の変化を受け入れていくものだが、僕はそれができずに今に至るのだろう。というわけで、これもとりあえずxということにしている。

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さて、日本は男性というだけで女性の人権を侵害することが日常的に寛容される素晴らしい国である。思い返すと、僕に”xジェンダー”のマインドが芽生え始めたきっかけは、幼少ながら女性が社会から受ける不当を感じ取り、それを避けるための逃げだったのかもしれない。これは性的指向や自認との組み合わせが良かったため取れた選択肢であり、そうでない人にとっては不当と正面から戦わなければならないことになる。

最近、黒人の方がバスのドライバーに失礼な態度を取られたという理由で激高し、相手のスマホをアスファルトに叩きつけた光景を目にした。その瞬間はなんてキレやすい人なのだろうと思ったが、後から彼はもしかしたら人種を理由に不当な扱いを受けたと感じ、抗議としての怒りを態度で示したのではと憶測した。

日本では女性が声を上げると「フェミニズム乙」「ヒステリックwww」「マジになってるキモ」といった声が聞こえてきそうだが、相手の本気を冗談にしてあしらうことほど卑劣なことはない。あなたは人種差別をされてきた人に対しても同じことが言えますか?

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