見出し画像

10代で老人介護する羽目になった話

 最近は『noteを使ってお気持ち表明』なんてものをよく目にする。

 お気持ち表明ってなんだろうね。吐き出すとスッキリするんだろうか。ならちょっとやってみようかな。そんな気持ちで真夜中にこの文章を書いている。

 別に気持ちを表明したからといって、誰かに慰めてほしいわけでも、共感してほしいわけでも、物議を醸したいわけでもなく、いつまでも折り合いのつかない自分の感情に決別できたらいいなと思って書いている。ただの愚痴です。うん。


 高校1年の時、祖父が倒れた。
 歪んだ背骨が神経を圧迫したせいで、半身不随になったのだ。
 それと同時に祖母が認知症になった。
 父が単身で転勤になった。

 そして私は、いわゆる『ヤングケアラー』になった。

 箇条書きにしないと纏まらないほど、一気に色々起こったのだ。怒涛のイベント目白押し。まさに地獄である。

 要約すると、一つ屋根の下に要介護の老人二人と、母一人、子一人。
そういうことである。

 半身不随の祖父は自宅から車で片道2時間の総合病院に入院となったので、母は祖父にかかりきりだった。私はその間、祖母の面倒をみた。

 私は、この『祖母』というのが、どういう存在なのか未だによく分からない。
 創作の世界だと、祖母といえば、のび太のお婆ちゃんのような優しい存在が思い浮かぶが、私の祖母はそうではなかった。
 いつも何かに文句を言っていて、孫にもあまり話しかけたりはしなかった。
 一つ屋根の下に暮らしてはいたが、私は彼女がどういう人なのかをよく知らないまま育った。

 そんな祖母相手に、当時の私がやったことといえば、学校から帰ってきて食事を作るくらいのことだ。
 実際、認知症というだけで、身体が元気な祖母はそれほど介護を必要とはしていなかった。
 作った食事を『まずい』といって捨てられた時は流石に怒りを覚えたが、祖父の面倒をみる母に比べれば、私のしていたことなど大したことではない。
 当時の私は、そう楽観的に考えていた。

 結果からいうと、祖父の介護は2年続き、祖母の介護は12年続いた。
 こうして文字にして打ち出してみると、それほど長くないように感じるが、私の性格と人生を歪めるには十分な年月だった。

計算してみてほしい。16歳から28歳までの12年間である。その間の私の人生の大半を祖母の介護が占めているのだ。そりゃ愚痴の一つも吐きたくなるだろう。

 介護で一番辛いのは、終わりが見えないことだ。
 いつまで続くんだろう。いつ終わるんだろう。
 辛い、苦しい。そんな気持ちを長い年月抱き続けて、終いには、早く死んでくれ、と家族の死を望む心が芽生える。そしてそんな考えに自己嫌悪し、どんどんと心が荒んでいくのだ。

 祖父は病院を転々とした。
 ご存知だろうか。ひとつの病院に要介護老人を入院させておくことができるのは三ヶ月間だけなのだ。そういう仕組みだか制度だかがあるのだ。
 母は期間が満了する度に移転先の病院を探して駆けずり回り、目に見えて疲弊していった。時々突拍子もないことをする母であったが、基本的には穏やかな人だ。しかし、介護を続けていくうちに表情が強張り、ピリピリとした空気を纏うようになり、頻繁に金切り声で怒鳴るようになった。

 何度も母と口論をした。
 私は元の優しい母に戻って欲しかったので、何とか落ち着くように説得したが逆効果だった。
 今になって思えば、母は愚痴を吐く相手がおらず辛かったのだろう。私がそのことに気がつけたのはもっと大人になってからだ。
 これも介護の辛いところだ。
 相談できる相手がいない。愚痴を聞いてくれる相手がいない。
 誰だって、人の愚痴を聞いていい気分にはならない。特に介護の愚痴は難しい。経験した人にしか分からない感情がいっぱいあるからだ。
 主に、殺意とか、殺意とか、憐憫とか、殺意である。

 私も、介護の愚痴を誰にも言えなくて辛かった。なんせ思春期真っ只中の10代である。周りの友人に愚痴をこぼしても共感してもらえるどころか、いわゆる『お婆ちゃんっこ』の友人からそんなこと言ったらダメだよ、などと諭されたりするのだ。私は二度と人に愚痴を吐くまい、と思った。

 高校三年で祖父が亡くなった。
 祖父は明るい人だった。倒れる前は住んでいた地域の自治会長をずっとやっていて、たくさん友達がいて、私のことも可愛がってくれていた。長い闘病生活を送っていた祖父だったので、亡くなった時は悲しみよりも、ようやく苦しみから解放されたろう祖父に、労りの気持ちがわいた。
 母の顔には、安堵が浮かんでいた。
 そして、祖父が死んだことで、祖父母が〇千万の借金を抱えていることが発覚した。
 母の顔は般若に戻り、私は祖父との輝かしい思い出をドブに捨てた。
 大学受験を控えた年のことである。

 祖父は信心深かった。
 毎年必ず四国参りに行き、祖母もそれに伴っていた。借金は、その旅費とお布施の積み重ねである。
 祖母は「私は悪くない!お爺さんが悪い!」とずっと叫んでいた。
 ただでさえなかった祖母への好感度がさらに下がった。

 ちなみに借金は、父が2年ほどで返済した。偉大な父である。
 よく、『人生はやり直しのできないガチャである』というが、私は祖父母ガチャは最悪だったが、幸運にも両親ガチャは大成功していたらしい。

 まあ、そんなことはどうでもいい。

 こうして我が家は、母一人、子一人、要介護の老人一人、の三人暮らしとなった。

 父と母の尽力で、私は幸いにも希望していた大学へ通うことができるようになった。バイトをはじめ、友人もでき、望んでいた分野の勉強もできた。
 しかし、例の借金のせいで、母も働きに出ることになったので、私は定期的に祖母の食事を作るためだけに家に帰らなければいけなくなった。
 大学から家まで片道2時間掛かったので、食事を作る日は、5限の授業を受けることは出来なかった。それに不満は感じていたが、辛いというほどではなかった。
 二対二だった介護が、一対二になったのだから、介護生活もマシになるだろうと思っていたのだ。
 が、人生はそう甘くない。

 祖母の認知症が悪化した。
 しかも『徘徊』という最悪の方向にである。
 この徘徊がひどく私を苦しめた。
 祖母の徘徊は家の中だけで行われた。それも人が寝静まる深夜である。
 母の部屋は二階にあり、私と祖母の部屋は一階にあった。だからだろうか。祖母はある期間から、毎日私を起こすようになった。
「おい〇〇、起きてるか、寝てるか?」そう言って祖母は私が目を覚ますまで、私を揺り起こすのだ。毎日毎日、何回も。
 人間の3大欲求は食欲性欲睡眠欲、というが、睡眠を阻害されると人間は本当に心から命の危険とストレスと怒りを感じる。
 私は夜中なのも忘れて祖母に怒鳴り散らした。それでも祖母は私に怒鳴られたことを忘れてまた次の日も起こしに来る。私はストレスでノイローゼになり、苛立ちから額を掻き毟りすぎて額の皮を失った。

 本気で殺そうと思った。
 やられる前にやるしかないと思った。
 けれど私のわずかな理性が言う。終わりの近い老人を殺して、自分の未来を失うのか?
 私は祖母の殺害を実行する代わりに、文章に殺害方法を書き記すことでなんとか正気を保った。

 その時の行動のおかげで、今noteにお気持ちをしたためられる程度には文章力を得られたのだと思う。なんとも皮肉な話である。

 家に帰るのが嫌だった。
 家で寝るのが嫌だった。
 神経が過敏になった私は、わずかな床の軋みや足音で目を覚ますようになった。
 祖母が起こしに来る。
 そのストレスで、起こされる前に起きてしまう程だった。
 母には申し訳ないと思いながらも、出来るだけ大学に入り浸り、友人と遅くまで飲みに出かけ、バイトを詰め込み、可能な限り友人の家に泊まりに行った。
 祖母のいない場所では安心して寝られたからだ。

 その生活が4年続いた。
 大学を卒業した私は就職した。
 母は、家の事も介護のことも気にするなと言ってくれたが、私は家から通える場所を職場にした。
 私が仕事から家に帰ると、母は金切り声で祖母の悪口を言った。私もそれに同調して、金切り声で祖母の悪口を言った。そうすると母はスッとした顔で穏やかに笑ったし、私も胸のモヤモヤがスッと晴れた。
 側から見れば、私と母二人がかりで、祖母を虐待しているように見えただろう。けれど私たちはどうにか二人でギリギリ保ちながら、某〇八先生の言う、『人』という字のようにお互いを支え合っていたのだ。
 本心を言うと逃げ出したかったが、私がいなくなれば、母が倒れてしまうと思ったので、とても家から出ていくことは出来なかった。

 祖母は変わらず夜中に徘徊した。私は祖母の足音で目を覚ます。けれど、この頃祖母の興味は、私から別のものに移っていた。

 電話である。

 小さな手帳を持って、深夜2時、3時に何処かへ電話を掛ける。
 本人は友人に掛けているつもりだろう。しかし90歳を超えた祖母の友人など、殆ど故人になってしまっているのだ。掛けた先はどことも知れない家。それを何回も繰り返すのだ。
 家族だけでなく他人にまで。私は慌てて飛び起きて祖母を電話から追い払った。それでも祖母はめげずに何度も真夜中に間違い電話を掛けようとする。私と母の留守中に、6回も同じ家に間違い電話を掛けているのを知った時は、母と二人で蒼白になった。
 母は相手先に謝罪の連絡を入れ、電話は祖母の手が届かないところに撤去した。

 本当に疲れていた。
 身も心もボロボロだった。

 25歳の時、祖母が徘徊しようと外に出て、足首の骨を骨折した。
 90歳を超えた祖母は手術も難しく、歩行に難がある後遺症が残るだろう、医者にそう言われたと母の報告を聞いて、私と母は、祖母に見えないところで手を叩いて喜んだ。

 これでようやく祖母の徘徊がなくなる!

 これで夜中に起こされなくてすむ!!

 私は全てから解放された気分になった。
 もちろん何も解放されてなどいなかったのだがそう感じた。

 これを読んでいる人は、私たちのことを非情だと思うだろうか。
 祖母が可哀想だと同情するだろうか。
 そう思いたければそれでいい。
 とにかく私たち二人は、救われたと感じたのだ。
 事実、それから祖母が亡くなるまでの3年間はそれまでの9年間に比べれば穏やかだった。
 歩けなくなった祖母は日に日に衰え、遂には寝たきりになった。
 汚物の処理やらと言った介護によくあるあれやこれはあったが、そんなのはもう慣れっこだったので、たいして苦には感じなかった。
 母と二人で、祖母のいない場所で、「祖母はいつ死ぬんだろうな」などと話をした。

 最後の2年、祖母は施設で寝たきりになった。
 腹に水が溜まるので、それを摘出できる医療介護の福祉施設に入った。
 私は、時々母と二人で着替えを持っていくくらいで、祖母に会いにいくことは殆どなかった。

 祖母は施設で亡くなった。
 朝になって息を引き取っているのを職員の人が見つけたらしい。祖母の葬儀は家族だけでした。
 棺の中には、四国詣りのお布施でもらえるお札が50枚近くあったので、それを入れた。例の借金の結晶である。
 葬儀場のひとが「徳のある方だったんですね」と言った。家族全員苦笑いだった。
 誰も泣いてなかった。
 父も、父の姉も、実の母親の死に涙一つこぼさず、父に至っては早くタバコが吸いたい、などと言っていた。
 虚しい人生だなと思った。

 私がこのように、祖母の虚しい最後をわざわざ文字にしたのは、いまだに私が、祖母に対して怒りを感じているからだろう。
 長くなるしまとまりが無いので書きはしなかったが、書き切れないくらい、本当に祖母には色々と振り回されたのだ。人生をめちゃくちゃにされた。希望していた大学に入り将来の夢へのチャンスを掴み掛けていたが、ノイローゼになっている間に手放してしまった。

 今の私は抜け殻だ。
 夢もなく、希望もなくただ生きている。
 学生の頃の事を思い出すと、友達との楽しい思い出と一緒に、苦しかった介護の思い出がついて回る。
 睡眠障害は未だに私を苦しめる。

 私は、今の私の人生は『余生』だと思っている。
 あとはただ、死ぬのを待つだけなのだ。

 介護は苦しい。
 本当に辛い。人生がめちゃくちゃになる。
 デイケア、医療施設、介護施設、福祉の制度は色々あるが、やはり限度がある。お金もいる。

 介護って何だろう。なぜ、自分の未来を消費して未来の無い相手の面倒を見なければいけないんだろう。家族だから?家族って何だ。
 私と祖母は血は繋がっている。
 血以外の繋がりはあっただろうか。わからない。

 今日本には、10代〜20代で家族の介護を強いられている若者『ヤングケアラー』が推定17万人いるらしい。どうかしている。

 とはいえ、介護の辛さに年齢は関係ないと思う。ひたすらに辛いのだ。私は祖母に家族愛を感じていなかった。だからまだマシかも知れない。
 愛を感じていれば、きっともっと苦しいだろう。

 この文章をここまで読んでくれた人がいたとして、私があなたに言える事は、介護において『死んでほしい』と願うのはごく当然の事だと言うことだ。

 介護は生きていればいずれぶち当たる社会問題だ。もしあなたが誰かの介護をすることになって、自分の感情の行き場をなくしたら、この事を思い出してほしいと思う。

 家族だ。
 愛してる。
 でも死んでくれ。

 だって自分にだって自分の人生があるのだから。

 これが、私が16歳からの12年間、介護の末に得た結論だ。


 さて、こうして長々とお気持ちを表明してみたが。なるほど、自分の気持ちを文字にして向き合うと、少しスッキリした気がする。

 読んでくれてありがとう。


※追記
昨夜これを書いた時は、ただ吐き出せればそれでいいと思っていた。
でもこれだけは言いたい。私は自分はこんなに苦しくて不幸だと言うつもりは毛頭ない。介護の苦しみというのは、誰にだって襲いかかる可能性があるし、今介護をしている人達の苦しみと私の苦しみを比べるなんてことはできない。

介護は皆等しく苦しい。
好き好んでやってる人なんていない。

ただ言いたい。今苦しんでる人にも、これから苦しむかもしれない人にもこれだけは伝えたい。

「早く終わってくれ」と望む自分を責めないでほしい。
終わってくれ、それは相手の回復を祈る言葉であるかもしれないが、大抵は死を望む言葉だ。

でも自分を責めないでほしい。
むしろ開き直るくらいでちょうどいいと思う
あ〜あ〜、早く死んでくれねえかな〜。
そう思うようになった時、少なくとも私はだいぶと心が軽くなったのだ。

私のくだらないお気持ちを読んで、誰かの心が少しでも軽くなることを私は望む。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?