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【寄稿】小山美砂さん(ジャーナリスト)/取り残された「原爆被害者」が投げかけること──


小山美砂(こやま・みさ)
1994年生まれ。2017年、毎日新聞に入社し、希望した広島支局へ配属。被爆者や原発関連訴訟の取材に取り組んだ。支援者を含む約100人の証言を聞き取り、2022年7月、「黒い雨被爆者」が切り捨てられてきた戦後を記録したノンフィクション『「黒い雨」訴訟』(集英社新書)を刊行。大阪社会部を経て、2023年からフリー。広島を拠点に原爆被害の取材を続ける。

●「昔話」ではなく今の問題


原爆被害に終わりはない。
この視点で、広島を拠点に取材を続けている。終戦から78年を迎え、社会の関心はもっぱら「被爆体験の伝承」に向けられている。しかし、まだ「被爆者」として認定されず、救済されていない人たちがいる。この課題を考えたくて、全国紙記者を辞めて今春からフリーになった。人生を賭けるほど大切なテーマだと思っている。
大阪市出身で、広島に縁はない。大学時代に初めて聞いた被爆証言に衝撃を受け、新聞社に入社後は広島支局への配属を希望した。原爆を「昔話」ではなく今の問題として捉え、伝えたいと思ったからだ。

●病気と貧乏との闘い


広島支局で打ち込んだ取材は、原爆投下後に降った「黒い雨」を巡る問題だ。爆心地から20㌔、30㌔離れた山村にも雨は降り、近距離被爆者同様の下痢や脱毛といった急性障害の他、ガンや白血病等の重い病気を患う住民が続出した。
しかし、国はごく限られた範囲しか援護対象とせず、その外側にいた人たちは医療や手当を支給する「被爆者」と認めなかった。戦後75年以上にわたり、黒い雨被害者を放置してきたのだ。
「黒い雨の問題ってね、貧乏との闘いでもある。病気で十分働けなくって、お金が残るはずがない。国が勝手に戦争をして、病気だらけの人生を放っておいた。黒い雨で被爆をして病気のひどい人は、死ぬ道しかないような気がする」。
援護の対象外とされた住民たちが国等に被爆者健康手帳の交付を求めた「黒い雨訴訟」で、原告団事務局長を務めた高東征二さんが私に語った言葉だ。
恥ずかしながら私は、爆心地近くで「ピカドン」を経験した人の証言こそ重要だと思い込み、遠距離で雨を浴びた人たちの健康被害に目を向けてこなかった。高東さんは当時4歳で、爆心地から約9㌔離れた場所で黒い雨や灰が降るのを見た。2015年から6年続いた裁判中、高血圧性心疾患、脳梗塞、不整脈を立て続けに患い、「死への坂道を転がり落ちているよう」な恐怖を感じていた。それでも国からは何の保障も受けられない。ろくに取材もせずに「死ぬ道」を歩く人を見捨ててきたことに気がつき、深く自省した。

●裁判勝訴も新たな提起が


以降、黒い雨被害者の取材にのめり込み、100人近くから証言を聞き取った。2021年7月に広島高裁で全面勝訴し、判決が確定した時にはノートを取りながら涙が止まらなかった。高東さんにも手帳が交付された。気兼ねなく病院に通えるようになり、病への不安も少しは軽くなったようだ。保障の重要性を実感している。
ただ、今も取り残された原爆被害者がいる。「黒い雨訴訟」の確定を受けて国は新しい被爆者認定制度を作り、県内ではこれまでに4000人以上が新たに「被爆者」と認められた。しかし、200人超は手帳の交付が却下されており、この4月に「第二次黒い雨訴訟」が提起された。被害者を分ける新たな境界線が妥当か否か、争われる見通しだ。

●生きやすい社会のために


そして問題は広島だけに留まらない。長崎では半径12㌔圏内で「被爆者」に認められる地域とそうでない地域が混在しており、全員の援護を求める裁判が続いている。「黒い雨訴訟」を経た広島では、爆心地から30㌔離れた場所でも援護が認められており、「広島との差別」にも抗議の声が上がっている。
伝承、伝承と叫ばれるが、彼らはまだ「被爆者」としての権利さえ獲得できていない。「被爆者」という言葉は非常に限定的で、あくまで国が定めた基準を満たした人たちを指している。広島と長崎でなおも被ばくの影響を訴えている人たちも、原爆被害者とは言えるはずだ。相次ぐ病の原因を原爆に求めても、「科学的根拠がない」と国には否定されてしまう。その心身の傷はいかほどだろうか。原爆被害者の苦しみは続いており、保障を巡る議論にも終止符が打てない。だから、原爆被害はいつまでも終わらないのだ。

原爆被害者救済の課題は、「どんな社会を実現したいか」と問いかける。目に見えない被害を切り捨てるのか。それとも、「疑わしきは救済する」との姿勢で、広く援護してゆくのか。後者の方が、誰にとっても生きやすい社会になるはずだ。被害者が被害者として救済され、国や企業が責任を取る社会へ。広島に根を下ろした私が目指す場所だ。

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