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電車の窓を流れる謎のチョンマゲ、の話

 以前、電車に乗るとそれだけで疲れるのであまり乗りたくない、という話をしたが、実は電車の窓から景色を眺めるのは好きだったりする。

 一瞬で通り過ぎる、僕には何の関係もない世界の景色は面白い。ヨドバシカメラのテレビコーナーに映る、どこの国のものかもわからないひたすらに綺麗な景色を眺めている感覚に近い。延々と流れる自分の外側の世界をただ見続ける感じ。

 電車のドアの端にもたれかかって画面の端から端へ、スライドショーのように変わっていく景色を見ている間は少しだけ、居心地の悪い電車の中にいる、ということすらも忘れることができる。

 側溝にハマって自転車に乗ったまま頭から落ちていく小学生、マンションの部屋の奥に見える「どうみても事の最中ですよね」という男女、ベランダから洗濯物を落っことしちゃう人、勢いよく道に飛び出して車に轢かれかける子供。それら全て、電車に乗った僕とは何も関係がなくて、たとえ関係を持ちたいと思ったとしても不可能な存在だ。

 そんな景色が見えた日には、「あの後、彼らはどうなったのだろう」といつまでも考えてしまう。小学生は大ケガをしたかもしれないし、男女は実は浮気に夢中だったのかもしれない。

 実は僕の見間違いだったということもあるだろう。洗ったばかりの洗濯物をもう一度洗う羽目になる哀しい人はいなかったかもしれないし、子供に見えたのはビニールか何かだったのかも。

 何を考えてみたところで僕には何もできない。遠い国のニュースを見ているようなもので、今ここにいる僕には何も関係がない。けれどそういった景色を見るのはとても楽しい。ただ電車に揺られている僕の裏で、誰かの身に少しだけドラマが起こっているのかも、とワクワクできるからだ。

 中でも僕が一日頭を悩ませた景色がある。

 その日、いつものように窓の外を眺めながら、家へ帰る僕の目に飛び込んできたのは、しっかりとしたチョンマゲ頭でタバコを吹かす、首元ダルダルのTシャツを着たお婆さんだった。

 一瞬、時が止まったようだった。電車の景色は瞬く間に視界から遠ざかっていったはずなのに、僕はそのちょんまげが脳裏に焼き付いてしまっていた。

 僕が大のチョンマゲフェチで、そのあまりの立派さに目を奪われてしまった、とかでは無い。ただ「現代でそんなちゃんとしたチョンマゲ見ることある?」という衝撃が凄まじかっただけのことである。

 ついでに言っておくと「お婆さん」というのは目視で確認する限りそう見えた、という意味であり、たまにいる「お婆さんみたいなお爺さん」という可能性も捨て切れない。

 21世紀ももうすぐ四半世紀に届こうとしているこの令和3年に、両国国技館から遠く離れた埼玉の田舎で立派なチョンマゲを観測してしまった僕は、思わず電車の中ということも忘れ、過ぎた景色をもう一度確認しようと窓に張り付いた。もちろん見える筈もなく、チョンマゲお婆さんはあっという間に遥か後方へ過ぎ去ってしまっている。

 僕はゆっくりと車内を見渡した。誰か同じ景色を観測した人が、同じような気持ちになって同じように観測者を探し、目が合うのではないかと期待したからだ。

 しかし見渡す限り見えるのはほとんどスマホに向かう人々、もしくはすごい勢いで船を漕いでいる疲れ切った社会人の姿だった。

 僅かに存在した「電車の外をボーッと眺める人」は何事もなかったように依然として電車の外をボーッと眺めている。

「今さっき立派なチョンマゲが見れたんですよ!?」

と僕は叫び出しそうになってしまった。

 こうなると次に疑わざるを得ないのは僕自身である。チョンマゲ婆さんはただの見間違いだったのかも知れない。けれど、だとしたらチョンマゲ婆さんに見間違えた元はなんだったのか、という話になる。

 普通こういう時は、目の前の異常な光景が、何事もない普通の景色として映るものではないだろうか。だが僕の目には、おそらく普通の人は気にも留めない何かがチョンマゲ婆さんに見えていたのだ。

 一体何がチョンマゲに見えてしまっていたのだろうか。チョンマゲ以外の、首元ダルダルTシャツのお婆さんというのも見間違いだったのだろうか。お婆さんは本当にお婆さんだったのだろうか。実はお爺さんだったかもしれない。

 そんな事を考え続けていると、次第に自分の正気も疑えてきてしまう。小さなキッカケから段々と狂っていってしまう小説の主人公の気持ちがわかったような気がした。

 チョンマゲお婆さんという謎の存在を観測したことにより、僕はやがて狂気の世界へと足を踏み入れるのであった…。いや、そんな見間違いかも分からんモノに狂わされてたまるか。

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