関西人が”オチ”を求める理由

「で、オチは?」

 怖すぎる言葉ランキング堂々の第一位。

「あらへんのかい!」とか続けられるともう夜も眠れません。

 でも、怖がっているだけでは始まりません。人は、特に関西の人は、どうして会話にオチを求めるのか、考えてみようと思います。

面白くなくてもオチ

 被害者ぶって話をはじめましたが、僕はどちらかと言えば「で、オチは?」と言ってしまう方の人間です。出身も関西だし。なのでここから先は、会話でオチを求めてしまう人たちの弁明みたいなものです。

 まず初めに、オチを求める人たちは、別に面白さを求めているわけではないと思います。

 そもそもオチって、そんなに面白いものじゃない。

 漫才や落語を思い出して貰えるとわかりやすいと思います。オチで笑いが起こるものは、そんなに多くないはずです。「やっぱりサンマは目黒に限る」「こんどは熱いお茶が怖い」「やめさせてもらうわ!どうもありがとうございました」等々。これらのオチで大爆笑している場面、少なくとも僕は見たことありません。

 じゃあ漫才や落語でのこれらオチの役割は何かといえば、文字通り話を落とす、つまり終わらせることなのです。

会話のエンドマークとしてのオチ

 オチというのは、「ここで私の話は終わりです」というエンドマークなんです。少なくとも、オチを求める人にとっては。

 参考として、こんな記事があります。

http://tenro-in.com/mediagp/17711

 この記事を要約すると、「関西人の求めるオチとは、話を続けやすい状況を作ってから相手に渡すことである」という考察です。

 これは、かなり的を射た考察だと思います。要するに関西人は、投げっぱなしのどこで終わっているかわからない話が嫌いなのです。話の切れ目が見つからないと、どのタイミングでこちらから話をしていいかわからない。遊戯王でターンエンドを宣言しないようなものです。「こっちのターン初めていいかわかんねえよ!」というツッコミ、それが「で、オチは?」なのです。

 もっと言えば、この「で、オチは?」、もしくはその後の「あらへんのかい!」は、それ自体がオチとして機能するのです。そこでツッコミを入れれば、相手のターンから自分のターンに話を切り替えられるから。でもこの仕方はかなり乱暴です。奪い取るかのごとき暴力性を伴っています。だから「で、オチは?」は嫌われる。そしてマイナスイメージとして、”関西人は異常にオチを求める”とされてしまうわけです。

関東と関西の文化の違い

 関西人は会話に切れ目を求めがちです。僕は高校生まで関西に住んでいましたが、大学生以降は関東で暮らしています。やはり関東の人は、そこまで切れ目にこだわりを持たないように感じます。

 では、どうしてそんな違いがあるのか。もちろん、形式化された会話のやり取りである漫才やコントを多く見ているから、というのもあるでしょう。しかしそれは、順序が逆のようにも思えます。つまり、切れ目のある会話を求める人たちがいるからこそ、そういった笑いの形が発達した、とか。

 それなら、なぜそんなにも関西人はオチを求めるのか。ここからほとんど妄想になります。

 関東と関西の違いでよく言われるのが、関東は武士文化、関西は商人文化である、ということです。エスカレーターでの立ち位置が違うのは、刀を差しているかいないかが大本の原因だとか、ウナギをさばくときに、関東では背中から、関西では腹から切るのは、東では切腹に繋がって縁起が悪いからだとか……他にも探せばたくさんありそうです。

 関西は商人文化が根付いています。そこで重要視されるコミュニケーションの能力とくれば、多く商談を成立させるような会話の仕方になるでしょう。

 多く商談を成功させるには、用件を手短に伝える必要があります。しかし一方で、円滑なコミュニケーションには雑談も不可欠です。お互いの身の回りの話もしつつ、なおかつ仕事の話もする。そういうコミュニケーションに最適化された形が、ターン制のバトルのような切れ目のある会話なのです。ここまではお互いの個人的な話、ここからはビジネスの話――という風に、きっちり切り替えられるのが利点なわけです。

 仕事とはいえ、いきなりビジネスの話をされるよりは、ワンクッション世間話を挟んだ方が気持ち的に楽でしょう。けれどもその雑談を長引かせない。きっちりするべき商談はこなす――そういった効率化の果てに、関西人の会話の”オチ”なる概念が生まれたのではないでしょうか。

 まあ、知らんけど!(関西人の伝家の宝刀)

この話のオチ

 とまあ、ここまで長々とオチの話をしてきましたが、じゃあお前はこの話にどういうオチをつけるんだと言われると、かなり困ってしまいます。しかし上でも書いた通り、オチは面白くなくても良いのです。はちゃめちゃにしょうもなくても、終わりが分かれば良いのです。

 というわけであらかじめ書いておきますが、この話のオチは滅茶苦茶くだらないです。

 ここまで関西人式のコミュニケーションの利点ばかり挙げてきましたが、もちろん欠点もあるわけです。切れ目を求めるコミュニケーションは、する方のエネルギー消費が大きいのです。

 仕事としてコミュニケーションをする上では、エネルギーを使うのもむべなるかなというものです。そこには賃金が発生するのですから。しかしコミュニケーションは、そういうものばかりではありません。”商談成立”のような目的のない、しいて言うならば”会話すること”そのものが目的のコミュニケーションもあります。そして、そのような目的のない会話の方がおそらく多いでしょう。

 なので、そういった”日常会話”では、上記のようなことを意識する必要はないのです。もちろん、心の隅に置いておいた方が会話がスムーズに進むかもしれませんが、相手に求めるレベルまで達してしまえば、むしろコミュニケーションを阻害してしまうでしょう。

 第一、全ての会話で”オチ”を求めるようになってしまえば――


 オチオチ、誰かと話すこともできなくなっちゃいますからね!!


 おちまい。おち(てはい)まい。

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