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10年前、仙台、石巻、大船渡。

10年前のこと。

一度もちゃんと文字にしたことがないので、10年の節目に書き出してみようと思う。

10年前、私は石巻のショッピングセンターにある服屋の店長だった。仙台の自宅から片道50km超、海沿いの道を毎日ロングドライブで通っていた。あの日はたまたまお休みで、仙台の自宅で被災した。古い家だったせいもありとにかく揺れた。家の中は根こそぎ倒れ壁が剥がれ、この日が生家に住んだ最後の日になった。ちらちらと雪が降って、本当に寒かった。

うちの猫は2日間くらい行方不明になった。必死で探しても見つからず、結局どこにどうやって隠れていたのかは今も本人しか知らない。あの時は二度と会えないと絶望的な気持ちになったけど、無事に16歳の長寿になり、いま私の後ろですやすや眠っている。

母は当時小学校の校長をしていた。学校は避難所になるため、公務員である母は家に戻って来ることができない。母方の祖父母の家は岩手の大船渡で、海から徒歩5分くらいの場所に家がある。動けない母の代わりに、祖父母の安否を必死で探った。

翌々日の13日の夜だったか、祖父母は病院にいるものの無事らしい、という吉報があった。一分でも早く知らせてあげないと思い、なけなしの貴重なガソリンを使うこともやむなしで、姉が運転し母の元へ向かった。なのに、あと5分で到着というところで共に安否確認に奔走していた従姉妹から短いメールが届いた。「おばあちゃん亡くなったって」

私はこの時、心って本当にボキッと音を立てて折れるものなんだな、ということを知った。こうやって文字にするとあっさりしてしまうけど、私の人生はこの時を挟んで前と後、全く別のもののような気がする。自分の中の何かがひとつ死んでしまった瞬間だったと思う。うまく言えないけど。

最悪の報告に変わってしまっても、事実を伝えないといけない。引き返すこともできず、着いてもなかなか車を降りられなかった。訃報を伝えると、母は「そんな気がしてた」とだけ答えた。

祖父は変わらず安否がわからないままだった。その夜遅く、なんとか他職員に任せて戻ってきた母と父を交え話し合いをした。ガソリンは少なく、どこまで行けるかわからないが、行ってみようということになった。私が一番若く体力があったし何日何晩でも歩く覚悟だったが、いま冷静になって考えるとかなり無鉄砲だった。翌朝、出発しようと靴紐を結んでいたタイミングで電気が復旧しレンタカーを貸りることができたのは奇跡だったと思う。

大船渡へは父と母、私で向かった。姉は小さな子供たちがいるので諦めた。迂回して山沿いを抜け、いつもの何倍も時間がかかった。運転中、ラジオの向こうでニュースキャスターが息を飲んだ。数百人単位の遺体が打ち上げられているようだ、という初報だったと思う。続報の数が増えていくにつれ、もう聞きたくないと思ったが、生命線であるラジオを切るわけにいかず、母も父も黙って聞いていた。

山を降りて街が見えてくると、見慣れた道は黄色く汚れ、校庭の砂のようなものが積もっていた。その時はまだ、海から少し距離があり、全容がわからなかった。恐る恐る道を進み、ここを曲がれば祖父母の家、という交差点に差し掛かり曲がろうとした時、望みが砕けた。あるはずの道が無い。大きな瓦礫の壁が立ち塞がって、向こう側が見えない。奇跡的に自宅が波から逃れていることを願っていたけれど、希望は1ミリも無かった。

病院やあらゆるところを回り、足跡を辿って数時間後、避難所でようやく祖父を見つけることができた。波に浸かったので誰かが分けてくれたらしい、若い男の子が着るようなジャージを着て、持ち物もなくちょこんと座っていた。

祖父は小さな頃からいつも私の顔を見ると穏やかに笑い、ゆかちゃん、と呼びかける。この時も私の顔を見て、穏やかに笑った。そして小さな声で「ゆかちゃん、おばあちゃん死んじゃったよ」と言った。

私はそれを聞いて堰を切ったように大声で泣いた。祖父が無事だったことの安心と、祖母が亡くなったことが事実であることの絶望や祖父が何もかも奪われたことの憤りやこの数日の不安や何もかもが全部ぐちゃぐちゃで、悲しいのか怒りなのかも全然わからなかった。

あれから10年経っても、この時ほど辛かった瞬間はない。私がこの時の祖父と同じ歳になって、どんどん脳や体が弱っていっても、多分一生、この時の祖父の力無い笑顔を忘れることはないと思う。

祖母は遠く離れた盛岡にいた。波に浸かってすぐに近所の方が引き上げてくれ、引き波に連れていかれずに済んだ。それどころか一番乗りで病院に運びこまれ、(実際はもうダメだったのだろうけれど)ペースメーカーが動いていたおかげでドクターヘリで飛ばしてもらっていた。あと10分遅ければ混乱が始まりヘリを飛ばすような判断は無かったと思う。海辺の街とは違い少し落ち着いていた盛岡で、綺麗にしてもらいあたたかい布団に包まれていた。思ったより傷も少なかったし、綺麗な顔をしていた。他のたくさんの方に比べれば恵まれすぎていて申し訳ないけれど、我々家族からすれば奇跡だった。小さなお葬式も、火葬もできた。全てあとちょっと遅かったら叶わなかったことだ。

祖父はその後、2018年に他界した。

津波がきた時、祖父が先に二階に上がったらしい。祖母が追ってくると思ったが、足がすくんだのか祖母は上がってこなかった。手を伸ばすうちに、祖母は水に飲まれた。先に登らせればよかった、と祖父は後悔していた。

震災後、執筆や家の再建に精を出し、やるせなさをバネに命を繋いでいるように見えた。物凄く精神力の強い人だった。私は祖母が亡くなった悲しみと同じくらい、祖父が全てを無くしそんな気持ちで晩年を過ごさねばならなかったことが辛かった。二人とも真っ当に善良に生きてきて、暖かい場所で穏やかに人生を終えていいはずの人たちだったのに。当てのない怒りがずっと胸の奥に染み付いて取れなかったけれど、それは祖父が亡くなったと同時に消えた。だから、私の中で震災が終わったと思えたのは2018年になってようやく。本当につい最近だ。

話は戻り、急スピードで祖母の葬儀を終え、祖父を盛岡の親戚に預け、仙台に戻ったあとは仕事もなく、続く余震に怯えつつ生きることだけをする日々が一ヶ月続いた。

天気はどんどん春めいて、ポカポカ陽気のなか片付けをした。朝起きるとまず朝食をとりながら新聞を広げる。その日、身元がわかった方の名前がビッシリと2面にも3面にも渡って並んでいるので、友人や仕事のお客さんなど知っている名前が無いか丁寧に目を通していく。いま思うと恐ろしい日課だが、その時はそれが日常だった。

ちなみに、電気が復旧してもテレビはほとんど点けなかった。なので、津波の映像はほとんど見ていない。震災直後はラジオしかなかったし、10年経った今でも、毎年3月になると私はテレビを点けないようにしている。

埃っぽい空気や積み上がった高い瓦礫、道に垂直に刺さる車、残った壁に描かれたスプレーサイン、説明できない匂い、現実の記憶は全然薄れないまま10年経った今も自分の中に沈殿している。それで充分なので、きっとこれからも見ないと思う。

仕事は4月の初旬に再開した。地域のインフラ拠点としての必要性に応えるべく当時のモールマネージャーがものすごく頑張ったおかげで、被災から一ヶ月で営業再開をすることができた。私たちも本部に掛け合って、季節関係なくなんでもいいから!と底値になったものを大量に集めてもらった。

誰もが洋服を全て流され、春服冬服下着に至るまで全て買い直さないといけない。みんな物凄い枚数を買っていき、一日中レジを打っても打っても列が終わらなかった。「ご無事で」「生き延びましたね」とスタッフもお客さんも会計をしながらずっと泣いていた。辛い話を山ほど受け止め(身近な相手より話しやすかったのだと思う)毎日気持ちがジェットコースターのようだった。夜には空っぽになった店内を必死で品出しして埋め、ボロボロのまま余震に怯えながら真夜中の海沿いを運転して帰った。スタッフのみんなも当然被災者なのに、本当に頑張ってくれた。花柄や明るい色なんて1年以上売れなかった。本当に本当に大変な日々だった。

お店は、2014年に閉店した。縁あってそのまま上京し、今に至る。心の中に火種として燻りつつも、震災がついてまわらない日常は久しぶりだった。

こうして書いてみると怒涛だったな、と思う反面、何十倍も苦しかった人たちばかりで自分の大変さなど被災したうちに入らない、と思ったりする。でも月日が経ち「忘れない」という言葉を自分事化出来なくて、毎年3月11日にはやっぱり自分も被災者の一人なんだな、と感じる。

忘れるとか忘れないとか、そういうことじゃないな、と思う。人生で一番、心が折れて絶望した日も辛かった瞬間も大変だった日々も全部この時のことで、震災がなければ今の私とは違う私になっていると思う。望む望まないに関わらず人生に組み込まれてしまって、「震災後の人生」を生きている。今日の幸せも、明日の楽しみも、全部3月11日の上に積み重なったものだ。

羽生結弦くんが今日コメントで「最近は、あの日がなかったらと思わなくなりました」と言っていた。私はそれがよくわかる。タイムスリップしてあの日をなかったことにできるなら、今の自分がなくなっても迷わずなかったことにしたい。なのに、嬉しいことや大事なものが増えるたび躊躇する時間が増える気がして、何かを得るたびに苦しさが伴った。

でももう10年。気がつくと震災がなかったら得られていないものや経験が手の中にたくさん増えていて、もう許してもいいかな、という気持ちもちょっとずつ増えてきているように感じる。絶対に一生、震災後の幸せなんて認められないと思っていたけれど、この調子ならあと10年経ったら「震災のおかげってこともあったよね!!」と言えるようになるのかもしれない。今はまだ、なかったことにしたいけど覚悟決めるから3分だけ待って、くらいの気持ちだけど、少しずつ前向きに変化出来ている。

早いな、もう10年。20年くらいあっという間に経ってしまうんだろう。

今回、節目を機にあらためて記憶を辿ってみたけれど、思ったよりも仔細に覚えていて安心した。とはいえ記憶は薄れていくもので、いつか忘れてしまうかもしれない。覚えているうちに一度、震災の時の記憶を事細かにまとめてみたいと思っている。10年経ったらもう50歳だし、そろそろ本気をださないと。大好きだった景色やおばあちゃんのことも書けたらいい。

震災はいつくるかわからない。どんなに想像を超えることでも、絶対に起こらないことは無い。だって大好きな景色や思い出が丸ごと無くなってしまうなんて、10年前は想像すらしなかった。会いたい人には会いたい時に会いに行った方がいい。それが難しいことが、今一番苦しいことだと感じる。コロナが一日でも早く終息を迎えますように。

3月12日からも、「震災後の人生」を一生懸命、生きます。




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